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行為の後、いつの間にか眠ってしまったらしいことを、暗がりの中で目覚めて知る。
まだ夜中だ。目が覚めた原因は衣ずれの音だった。シャーロットが服をその身に纏い直している。濃紺のカクテルドレスではなく、ダークグレーのパンツスーツを。信じられないことに、傍らにはキャリーケースが置かれていて、既に荷支度を整えてある風情だ。
ベッドの上で起き上がると、彼女の澄んだ眼がこちらを向く。
「起こした? ごめんなさいね」
「ロッティちゃん……? どこに行くの」
「決まってるでしょ。イングランドに帰るのよ。部屋の鍵はお願いね」
「どうして? まだ夜なのに……。そんなに焦らなくても――」
「あなたと違って、私は忙しいの」
「そんな……せめて朝まで、一緒にいられない?」
「駄目よ。それは恋人がすること。私たちは違うでしょう」
追い縋る調子の俺の言葉へ、シャーロットは静かに答える。その声は高地に吹くそよ風のように優しく、清涼で、それでいて冷淡だった。俺の下で取り乱していたのが嘘だったみたいに、シャーロットは淡々としていた。
厳然とした事実を突きつけられ、俺の喉は言うべき単語を何も発せられない。ああこれで、シャーロットは他の男に抱かれる準備が整ったのだな、とぼんやり考える。
仕事着を身につけたシャーロットは、もはや元の彼女ではなかった。未知に震える雛ではなかった。そこにいる彼女はもう、俺の手が届かないところへ飛びたってしまっていた。その理解が、俺の心にざっくりと傷をつける。
シャーロットが体の正面をこちらに向き直す。粛然とした佇まいで、俺への言葉を紡ぐ。
「私はあなたが、私の頼みを断らないことを――断れないことを、初めから知ってた。それを分かっていて、私はあなたを利用したの。あなたの好意を踏みにじったのよ。……ひどい女だと思ったでしょう」
それを、俺は全裸のままで聞いている。阿呆みたいだった。
でも君は、俺のことを分かってないよ、シャーロット。苦笑して、肩を竦める。
「全然だよ。本当にひどい人間は、自分をひどいだなんて言わない」
「……あなたはもっと気をつけた方がいいわ。あなたは優しすぎる。だから私みたいな、たちの悪い女に付け入られるのよ」
「君はたちの悪い女なんかじゃないし、そんな心配も要らないよ。俺が好きなのは、君だけだから」
シャーロットは押し黙り、眉間に力を入れ、奥歯を噛む。苦痛に耐えている表情。
好きだなんて言ってごめんね、と心の中で謝る。だけど、本当のことなんだ。応えてほしいとも思わない。
籠で歌う鳥より、自由に羽ばたく鳥の方が美しい。
俺は語りかける。遥か彼方へ飛び去らんとする彼女に。
「優しくできなくてごめんね。君に辛い思いをさせてしまった。泣かせてごめん」
「あなたが気に病む必要はないのよ。私が望んだんだもの。私があなたに、頼んだことよ」
「それでも君に……優しくしたかったんだ。ロッティちゃん、どうか忘れないで。俺はいつでも、君だけを愛してる」
「……私のわがままを聞いてくれて、ありがとう。さよなら」
ぽつりと言い残して、最愛の人は未明の闇へ消えていった。
ドアが静止するのを見届けてから、ベッドに倒れこむ。シーツからシャーロットの残り香が立ちのぼる。酷い気分だった。彼女のすすり泣きが、耳にこびりついて離れてくれない。生まれてこのかた、こんなに惨めな気持ちになったことはなかった。
シャーロットは俺を利用したと言った。俺の好意を踏みにじったと表現した。
それは違うよ、と俺は唸る。
俺は嬉しかった。まるきり打算の意図しかなくとも、彼女が俺を選んでくれて、とても嬉しかった。シャーロットに利用され、いいように扱われ、最終的にボロ雑巾同然に棄てられようと構わなかった。むしろ、それが俺の願いだった。ひたむきな望みだった。
俺を利用してよ、ロッティ。
擦り切れるまで利用して、そうして手酷く棄ててくれ。
でもそれを言う相手はもういない。小鳥は飛びたってしまっていた。
朝の歌を聞かせてくれないままに。
冷えた夜気が体を浸食してくる。冷たい夜はまだ明けない。
――The Bird Doesn't Sing a Aubade.
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