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 ルネ・ダランベール。
 執行部隊所属の、俺のかつての上官。シャーロットが親しくしていた相手。ルネはもうこの世の人ではない。敵の手にかかって、2年前に死んだ。
 ルネとシャーロットは女性同士ということもあってか、しばしば二人きりで長々と話しこんでいた。何を話していたのか俺は知らない。二人でいるところに近寄っていったら、しっしっとルネによく追い払われたものだ。
 柄にもないかもしれないが、俺はルネを尊敬していた。上官として、人間として、心から慕っていた。彼女は全き真のリーダーだった。
 そして、ルネに敬愛の情を持っていたのはシャーロットも同じだったのだろう。道半ばで途絶えてしまった彼女の足跡を、シャーロットは辿ろうとしている。追いつこうとしている。そしていつか、追い越そうとしているのだ。
 そう考えると、日中シャーロットが身につけていた男性的なスリーピーススーツも、男だらけの執行部にあって、課せられた使命を果たしていくことへの決意の表れに思えた。

「それで、ルネの何が聞きたいんだい」
「辛かったらごめんなさい。……最期のこと」

 申し訳なさそうに、シャーロットが切り出す。予想はついていた。シャーロットは、ルネの死に目には立ち会えていないから。
 それは、思い出というにはあまりに生々しい記憶だ。
 2年前。もう2年。まだ2年。
 ルネの臨終は、血染めの最期だった。美しい銀髪を自らの鮮血で染めて、命を髪に吸い取らせて、その体は少しずつ熱を失っていった。永遠の眠りが近づいても、彼女は苦痛の中で笑っていた。死ぬのが自分で良かった、君たちでなくて良かった、と。
 思い出す必要もない。思い出すには一度忘れる必要がある。脳裏から消えてくれない光景を、思い出すことはできない。
 今際にルネは、私を忘れて、と言った。愛する人へ、私を忘れて幸せになってくれ、と。それはどんなに想像を絶する心境だったろう。
 目の奥からとめどなく溢れ出る涙の熱さを、今まさに経験しているように、俺は想起することができる。嘘だろ、という内心の叫びが、頭の中で何度も反響した。目の前の状況を理解することを、脳が拒絶していた。戦友は、二度と動かない彼女を腕に抱いて、体の動かしかたを忘れてしまったように、呆然としていた。
 眼前のシャーロットに語った後で、最期は笑って逝ったよ、と付け加える。
 シャーロットが詰めていた息を吐く。

「私ね、ルネさんが亡くなったなんて、今でも信じられないの。何事もなかったみたいに、ルネさんがひょっこり帰ってくるんじゃないかって、まだ思ってるわ……」
「……そっか」
「――ごめんなさい。すべてを見ていたあなたの前で、軽率な発言だったわね……気を悪くしたかしら」
「いや……いいんだ」

 俺は戦友のことを考えていた。一度も涙を見せずに影から去っていった、真面目で堅物で、ルネを愛していた男のことを。
 ルネの死後、彼は虚無に覆われたその黒々とした眼で、じっと死を見つめていた。見えない死の輪郭をなぞるような、怖いくらいまっすぐな視線で。影を辞める直前の彼は、一歩踏み間違えばふらっと彼岸へ行ってしまえる、そんなぎりぎりのところに立っていた。俺にはそう見えた。
 どうにか、彼の喪失感を癒してくれる人やものが見つかっていればいいが、と願わずにいられない。
 ウェイターが、コースのメインディッシュを運んでくる。芳しい赤ワインのソースを絡めた、牛肉のフィレステーキ。ウェイターが去るまで、お互いじっと肉汁滴るそれを眺めた。
 ミディアムレアの肉塊にナイフを入れながら、シャーロットが問う。

「ルネさんは、幸せだったのかしら」
「死者が幸せだったか不幸だったか、それを論じることに意味はないよ。その議論は、生者の慰めにしかならない。死ってのは、生者だけに意味のあることだ」
「ずいぶん達観してるのね」
「そうだね。死んだ生き物の肉を味わいながら、血の色の飲み物を楽しみながら、死者の話をすることができる人間だよ。俺も、君もね」
「……そうね」

 シャーロットの返事は、考え事に沈んでいた。
 そこで音楽が切り替わり、ピアノとチェロ版の「愛の小径」の旋律が流れ始める。美しく、切なく、どこか甘美で、郷愁を誘うメロディ。時にしっとりと、時に軽やかに曲は進行する。この旋律によって胸の内に想起される、掻きむしりたくなるほどの過去への憧憬や、在りし日々への熱い思慕が、ポルトガル語やスペイン語で指すところの"サウダーデ"というやつなのかもしれない。
 2年前にはルネがいて。ルネを愛した男がいて。俺がいて、仲間がいた。
 もうあの頃には戻れない。

「いつだって、過ぎ去ったものだけが美しいのさ」

 赤々とした肉を切り出しながら、独り言みたいにぽつりと呟く。
 ここに生きている俺たちは、否応なしに生きていかなくちゃならない。大きめに切り分けたステーキを頬張って、咀嚼する。中から肉汁が溢れ、牛肉の風味が口内を満たす。死者の沈黙は永遠だ。俺たちはいつまでも、その沈黙に耳を澄ましているわけにはいかないのだ。嫌でもこうやってものを食べて、生きて、前に進まねばならないのだ。時間の歩みに取り残されないように、不断の流れにしゃにむにしがみついて。
 その後は他愛もない近況報告をした。料理はどれも美味しかった。文句なしに和やかな店内において、いつになくしんみりした気分だった。シャーロットに聞きたい話がたくさんあったはずなのに、なぜだか言葉はあまり浮かんできてはくれなかった。

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