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おかしい。この状況はなんだ。
先刻まで妻と楽しく酒を酌み交わして歓談していたはずなのに、俺の体はソファに横たえられ、しかも身動きができない。妻の鈴(リン)は細長い布を手に、今しもこちらに迫ってきている。酒精のおかげで頬を淡く朱に染め、表情はいつもとそう変わらぬやや悲しげなそれのままで。
このままでは大変な事態になってしまう。とうとう視界を塞がれながら、混乱する脳はそれでも思考を続ける。
どうしてこんなことになったのか? すべては俺が投げかけた、ひとつの質問から始まった。
「君はお酒を飲んだことはあるのかい?」
それはこんな何気ない問いだった。
バーで部下に酒を奢ってやっているとき、ふと思ったのだ。結婚前も結婚後も、鈴が酒を口にするところを見た覚えがないな、と。鈴が成人を迎えてから数年が経っている。これまでシューニャの隠れ家に滞在している期間は、自分も酒を飲もうとは思ってこなかったから、あそこにはアルコール類そのものが無いのかもしれない。
次に妻と顔を合わせたタイミングで訊いてみると、案の定彼女はまだ一滴もアルコールを嗜んだことがないらしかった。さらに質問を重ねてみると、興味自体はあるようだ。
それなら、と俺は袖を捲(まく)り上げるような気持ちになる。せっかく初めて酒を飲むなら楽しい方が良い。鈴との酒席をお膳立てすると勝手に決めた。
そして迎えた今日の日。鈴の居室のテーブルには、俺が見繕ってきた酒瓶が並べられ、それぞれのラベルを誇らしげに主張しているように見える。二脚のグラスの他に炭酸水やトニックウォーター、ロックアイスの他、チーズやナッツなどのつまみも揃えてあった。普段店以外ではほとんど飲酒はしないが、新しい扉を妻が開ける瞬間のアシストをする心積もりはできている。
主役の鈴は少し緊張した面持ちで、空気はどことなくデビュタントにも似た様相を帯びていた。
アルコールが体質に合わなかったり、酒を飲んで眠くなってしまってもいいように、お互い寝支度は済ませてある。俺はいつもと変わらぬパジャマ、鈴は胸元と腰にリボンがあしらわれているふわふわしたネグリジェだった。
さて、とグラスを懐に引き寄せる。
「最初は何がいいかなあ。希望はあるかい?」
「ええと……お任せしても、よろしいでしょうか」
経験がないのに希望を尋ねても困らせるだけだったかもしれない。了解、と応えて暫時思案する。
ビールやワインよりは味に馴染みがある部類がいいだろう。少し指先をさ迷わせた結果、蜂蜜酒の瓶を選び取る。その金色の芳醇な液体をとくとくとグラスに注ぎ、トニックウォーターで割ってから、二人ぶん作ったうちのひとつを鈴の方に押し出した。
「これはミード――蜂蜜酒をトニックウォーターで割ったものだよ。口に合うといいんだが」
「蜂蜜……ありがとうございます」
「それじゃあ、初めてのお酒の味に。乾杯」
「乾杯、です」
グラスを両手で持った鈴がこくりと喉を動かすのを見届けてから、自分も盃をくっと呷る。アルコール特有の味は強くなく、蜂蜜の風味とレモンの香りが爽やかに鼻腔を抜けていく。我ながら悪くない出来だ。まあ、ただ酒をトニックウォーターで割るだけなので、技術もへったくれもないのだが。
ちびちびと喉を潤している鈴を見やる。
「どうだろう、飲めそうかな?」
「はい。蜂蜜の甘さも感じられて、でも後味はすっきりとしていて美味しいです」
そう答える妻はほんのりと嬉しそうに笑んでいた。良かった、と内心ほっとする。
「それは良かった。肴もつまみながら、少しずつ飲むのがいいと思うよ。俺に合わせようとしたら、きっと君はすぐ潰れてしまうから」
「はい、気をつけます」
こくこくと真剣な様子で頷く。こうして鈴に何かを指南するのは新鮮な気分だった。彼女の酒席らしからぬ真摯な眼差しをほほえましく思う。
アルコールとしてはほとんど水同様に感じられるミードを二口で飲み干し、手酌でウイスキーのロックを作る。俺の手元をほう、と眺めていた鈴が口を開いた。
「セルジュ様はお酒がお好きなのですよね。もしかして、ここでは我慢されていたのですか」
「ああ、いや」湿り気を帯びたままの前髪を後ろに撫で付けながら答える。
「酒は好きなんだが、俺は酒そのものより酒の席の空気が好きなたちでね。飲める奴が一緒でないとどうにもそういう気にならんというか。じいさんは体が子供だから誘うわけにもいかんし」
「なるほど……その、一緒に飲む方はどんな方なのですか」
「そうだな、部下のがさつな男ばっかりだよ。色気がないことこの上ない」
大袈裟に肩を竦めてみせると、鈴はおかしそうに相好を崩した。
酒の席では他愛のない話題が一番だ。鈴は最近編み物に加え刺繍に凝っていること、俺は仕事の空き時間に犬の散歩代行を請け負っていることなどを話した。
空気が暖まり、自分の舌も滑らかになる。アルコールを舐めながら、こんな心持ちのときに思い出される人がいる。
「昔、ルネって仲間がいてね」
ブランデーで満たされたグラスを回すと、からりと澄んだ氷の音が鳴った。
「そいつは王子様みたいな男前だったんだが、さっぱりした性格で気のいい奴で、酒も強くてね。今はあんまり強い奴が周りにいないんだ。あいつと飲む酒が一番美味かったなあ」
「……そうなのですね」
「そうそう、それで」取っておきの宝物を披露するときのように、声が大きくなる。「後になってそいつが実は女だったと知ってね、驚いたよ。びっくりするだろう? 最後まで気づかなかったんだ」
ははは、と上げた俺の笑い声に続くものはない。
そうですか、と相槌を打つ鈴の、沈んだ声に滲む悲しみと切なさを、そのとき読み取ってやれたら良かったのだろう。しかし、思い出にも酒にも酔っていた俺には望むべくもなかった。
鈴は三杯ほど、俺は五杯ほど飲んでお開きとすることにした。妻の内訳はミードと果実酒とワインで、ウイスキーやブランデーをロックで飲んでいた俺とは、純粋なアルコール摂取量は酒杯の数以上に開きがある。彼女の頬は少し赤らんでいるが、酔い具合からして体質に合わない感じはなさそうだ。妻と二人穏やかに楽しい酒を飲めたことを、俺は単純に喜ばしく感じていた。
そう、だったのだが。
ふと、先ほどから鈴が口をつぐんで一言も発していないことに気づく。俯いた顔の先ではきゅっと拳が握られている。もしかして今になって気分が悪くなったのだろうか? それは当然、あり得ることだ。
「鈴、大丈夫かい? 気分が悪いなら、水を飲んで横に――」
「いえ、大丈夫です」
存外にきっぱりした口調で妻は否定する。そしてゆらり、と椅子から立ち上がって、
「セルジュ様。そこのソファに横になって頂けませんか」
胸の上で両手を握り合わせ、そんなことを言う。
妻の表情は懇願するようにも、悲しんでいるようにも見えた。瞳にはなにやら強い光が宿っている。
ヘーゼルの澄んだ双眸に見下ろされて、俺はしばし呆気に取られた。
「横にって、俺がかい? ええと、どうして?」
「駄目ですか……?」
眉尻を下げた鈴から、答えになっていない応(いら)えが返る。そんな寂しげな顔をされたら従わないわけにはいかない――たとえ要請の理由が分からなくとも。
腰を上げて、仰向けになって下さいね、との要求通りソファに身を横たえた。これに何の意味があるんだろうか、とぼんやり考えていたところで。
鈴が腹のあたりによじ登ってきて目をぱちぱちと瞬く。
「えっと、鈴……?」
俺の上に乗る妻の、なめらかな頬には酒精によってほのかに朱が差し、大きく丸い目も潤んで見えた。どこか夢を見ているようなぽうっとした表情はやはり、そこはかとなく悲しみをたたえている。
鈴の軽いがしっかりとした体の重みに動揺して、細い指がネグリジェの首元のリボンを抜く様子に混乱した。どうも俺が関知しないところで何かが進行している。鈴の中だけで。
「よい、しょ」
鈴は俺の腕を左、右と取って溝尾(みぞおち)あたりに揃える。咎める気にはなれないのは、やはり彼女の物憂げな雰囲気のせいであろう。そして、我が愛しき妻は。
手に持ったリボンで、俺の手首同士をぎゅっと縛りつけた。
全身が硬直する。どうして、と問おうとすると侘しさに染められた視線に見つめ返される。その段に至って俺は、全身の毛穴から冷や汗が噴き出してくるのを感じた。
もしかして、鈴は今――静かに怒っているんじゃないか?
先ほどの会話の後から沈黙が多かったのを思い出す。何か不用意な発言をしてしまったか。アルコールが回った脳は深刻に思い悩む機能をとっくにどこかに置いてきていた。
これは、能天気にすぎる夫への罰なのかもしれない。または――お仕置きと言うべきか。
たおやかな指が焦る自分の方へ伸びてきて、頬に触れ、顎を伝い、首筋をなぞっていく。指先が動くかすかな刺激が、酒のせいか緊張のせいか、何倍にも増幅されて感じられた。俺はこれから、どうなるのだろう。鈴は今から、俺に何をする気なのだろう。
おもむろに妻が顔を寄せてきて、俺の片方しかない目をじっと覗きこんだ。かと思うと、薄い瞼がふっと閉じられ、肉薄してきたそれが俺の視界をいっぱいに埋める。
これは口づけだ、と気づいたときには、鈴の柔らかい唇で俺のそれが完全に塞がれていた。
どくり、と心臓が強く拍動する。これまでに妻からのキスは数えるくらいしかなかったのに、こんな、奪われるようにされるなんて。この状況でのそれを喜べばいいのか、悲しめばいいのか、困惑しながらもキスを受ける。粘膜が交わり、舌が絡み、空気に水音が混じる。置かれた状況に翻弄されつつも体には着実に熱が蓄積していくのだから、男という生き物は本当にどうしようもない。
鈴の口の中はいつもより熱いようだった。キスにはアルコールの味が混じっており、自分が下にいるというシチュエーションも相まって淫靡に感じられてたまらない。
しばらくすると不意に無言のまま唇が離れていく。無意識のうちに舌で舌を追いかけていた俺は、情けないことに名残惜しさを覚えた。鈴はこちらの目の奥の物欲しげな色を読んだらしく、うっすらと嬉しげに口の端を引き上げる。
「可愛い、旦那様……」
ほのかに愉悦を含んだ、可愛らしい妻の声。そんな声音は、初めて聞くもので。
鈴は身を起こして自らの腰に手をやる。ウエストの一番細いところに巻かれていたリボンを無造作にほどくと、また俺の顔を穴が空くほど見つめた。ある予感が閃き、ごくり、と唾を飲みこむ。腹の奥から湧き上がってくる、この溶岩みたいに粘性を持った感情は、拒絶か、期待か。
二本目のリボンの使い道は予期した通りだった。つまりそれは、目隠しに変貌した。
手の自由を制限され、視界を奪われる。他ならぬ妻の鈴に。今まさにこの身で体験している事実が、それでも信じられない。
リボンは生成(きな)りの軽やかな素材だから、巻かれても目の前は明るい。照明を透かしたクリーム色の闇はしかし、暗黒よりも俺を不安にさせる。しかも、鈴は拘束され視界を塞がれた夫の姿を、明かりのもとでつぶさに見ているのだ。
「鈴……どうして、こんな……」
自分の吐息が熱くなっている。その理由を深く考える間もなく、胸元に細い指先が当たる感触があり、ぴくりと体が跳ねた。
どうやら鈴はパジャマのボタンを外していっているらしい。服と肌のあいだに溜まっていた、アルコールとキスの火照りが外気に溶けていく。代わりに熱冷ましのような空気が、あらわになった胸や腹をひやりと撫でた。
上着を寛げきったのか、衣擦れの音がしなくなる。が、物音なしでも俺には分かった。彼女が見ているのが。仔細に見られているのが。晧々と明るい照明の下で、じっくりと。
見られて困るところがあるわけではないが、状況が状況だ。俺は見えず、鈴は見ている。鈴は着ていて、俺は着ていない。その非対称性がいっそう羞恥を煽る。
ほうっと感じ入ったように吐かれる息が聞こえる。かと思うと、小さな掌が胸の下部あたりに押し当てられた。じんわりと温かい手底(たなそこ)が、最初はためらいがちに、やがて遠慮を取り払ったように大胆に、胸筋をもにもにと揉んでくる。
妻に胸を揉まれるなんて、こんな日が来るとは思わなかった――。
絶句しているうちに、指先は胸の先端まで及んできた。指先の軌跡はまるで弾むようで、おそらく指の持ち主は楽しんでいるのではないかと察せられる。すり、すり、というリズムを持った刺激に反応しまいとすればするほど、体は勝手に気持ちよさを求め始める。弄ばれたそこが固さを得ていくのが分かってしまう。
いつかの酒の席で、下ネタばかり口にする赤毛の部下が管を巻いていた。
「なあセルジュよう、知ってるか。男の乳首ってのは気持ちよくなるためだけについてるんだぜ。せっかくそんなもんが自分の体にあるんだから、使わんと損だと思わねェか?」
「はあ。使うとか損とか、お前は一体何を言ってるんだ」
「だからァ、女の子に頼むんだよ。弄ってくれってさ」
意味が分からん、なぜわざわざそんなことを、とそのときは一蹴したものだったけれど。この状況で思い出してしまうなんて、俺は奴の言にも一理あると納得しかけているのか。
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