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※ヴェルナーと水城先生、ハンスが既に知り合いという体(てい)でお読み下さい。


 規則的に打ち寄せる波の音と、湿り気を帯びた潮風が頬を撫でていく。私の眼前には南国のもののように青く美しい海があり、その砂浜で知人三人が歓声を上げ、はしゃぎ回っている。
 なぜこんな状況に身を置いているのか。現実を改めて俯瞰すると不可思議だ。
 発端は、数日前にヴェルナーが言い出した言葉だった。


 夏も盛りの8月のある日、いつものように仕事へ向かおうとすると、起き抜けのヴェルナーが胡乱な目付きで見てくる。物言いたげな視線に、玄関へ向かいながらキッチンの方を指差した。

「朝食ならレンジの中に入れておいたから。出してそのまま食べてくれ」

 一日おきにうちの居候になるヴェルナーは、寝癖のついたままの髪をふるふる揺らして、いんや、と私の言葉を否定する。

「そうじゃなくてよ。最近朝からどこ行ってんだ?」
「どこって……仕事だが」

 最近、の意味が汲み取れずに眉をひそめる。ヴェルナーは反対にええっ、と大袈裟に驚いた。珍獣でも見る目をこちらに向けてくる。

「嘘だろ、8月なのに? バカンスは? 旅行は? 海に行く予定は?」

 畳み掛けるような問いに、ああ、と得心する。8月になっても普通に仕事に行くのを不思議がっていたのだろう。ヨーロッパでは長いバカンス休暇があるのが当たり前だとしても、生憎とここは日本である。

「そんなものはない」
「だって学校は休みなんだろ? やることあんのかよ」
「無論だ。生徒の補修もあるし、何より溜まった書類仕事を片付けるいい機会だからな……」

 諸々の倒すべき書類への闘志を漲らせていると、若干ヴェルナーが笑いを引きつらせた。

「まじかよ、こんなにクソ暑いってのに大変だなァ……ちょっとでも休み取れないのか?」
「まあ、数日なら取れんこともないが……なぜそんなことを訊く?」

 聞き返すとヴェルナーの表情がぱああと明るくなる。よくぞ訊いてくれましたと言わんばかりに。

「俺さ、海行きたいんだよなー! 夏に1回も海に行かないとか考えられねえよ。何のために生きてるか分かんねえもん。あ、ハンスも行きたいって言ってたぜ」
「行きたければ勝手に行け」
「えー、お前も一緒に行こうよ」

 へらへら笑いながら誘ってくるヴェルナーに、顔をしかめて応える。自分は遊びのために海に行ったことなど一度もない。彼らはまるきり違うタイプの人間だという気持ちだけが強まった。
 時計をちらりと見、そろそろ時間が差し迫ってきたタイミングではたと気づく。というか、思い出した。

「貴様、泳げないのではなかったか?」

 ヴェルナーは(少なくとも昔の時点では)カナヅチだったはずだ。問われた相手はしかしきょとんとしている。

「今もそうだよ? でも良い男は女の子と砂浜が好きだって、相場が決まってるだろ?」
「……」そんな相場は知らない。
「何だよその蛆虫でも見るような目は。そんな目で俺を見て良いのは女の子だけだよ」
「…………」

 もういい、と心の中でヴェルナーとの会話を打ち切る。だんだん耳が腐ってきそうだ。リビングを行き過ぎようとする私の腕を、相手は取り縋るようにがっしり掴んできた。

「なあなあ、海! 海行こう? 海行かないと死んじゃうって! 俺を海へ連れてって」

 出勤のデッドラインは迫ってきているのに、ヴェルナーは腕に絡んだまま、しつこく食い下がってくる。朝からこれではたまらない。仕方なく私は折れた。

「分かった、分かったから縋りつくのはやめろ! 休日は作る、車も出してやるから」
「うん! ありがとうお父さん」
「誰がお父さんだ」

 自分より図体の大きい男に父親呼ばわりされ、先刻までの噛み合わない問答とも相まって憂鬱な気分になる。
 しかしまあ、そもそも運転するのは好きだし、日帰りで足になるくらいならいいか、とその時は軽く考えていた。


 数日後の朝、駐車場に集った面子を見て私はまず困惑を感じた。言い出しっぺのヴェルナーと、ハンス君と、私と、そして。
 開口一番、喉元から飛び出たのは疑問であった。

「あの……どうして水城先生がいらっしゃるんですか?」

 そこにはボストンバックを持った私服姿の同僚が、そわそわした様子で立っていたのである。ふんわりしたノースリーブのブラウスに、淡いグリーンのフレアスカートという格好の彼女は見慣れないが、確かに職員室では隣の席の水城先生だ。カンカン帽を被った頭を弾かれたようにぴくりと震わせ、こちらを見上げてくる。その両の瞳には不安げな色があった。

「えっあの、ヴェルナーさんから“桐原先生がぜひ一緒に海に行きたい”と仰ってたと聞いて……駄目でしたか? すみません……」
「……いや……」
「ヴェルナーさんが桐原先生への連絡を全部して下さると言ってたんですけど……もしかして何か不備がありましたか? ごめんなさい! ちゃんと確認しなくて」
「……。ヴェル……」

 傍らに素知らぬ振りでいるヴェルナーを思い切り睨む。相手は口笛を吹く真似という古典的な方法でとぼけていた。心の内で思いつく限りの罵詈雑言をヴェルナーに浴びせる。メンバーが揃ったら嘘も露呈してしまうのに、どうしてこいつは姑息な真似をするのだろう。
 眉間を押さえながら、水城先生に向き直る。

「あなたが謝ることではありませんし、駄目ということはないですよ……せっかくお出でくださったんですから、一緒に行きましょう」
「本当ですか! 良かったあ、私すごく楽しみにしてたんです」

 彼女の声がにわかに明るくなり、屈託のない笑顔がこちらに向けられた。夏の日差しに負けない朗らかな表情に意図せず視線が奪われ、慌てて我に返る。面々を促しつつ愛車のセダンに乗り込んで、どこか落ち着かない心持ちでハンドルを握った。
 向かう先は名の知れた海水浴場で、まず海沿いの幹線に出、その海岸線に沿って高速道路を2時間弱北に走ったところにある。そこは県内でも有数の景勝地でもあるが、私はまだ行ったことがなかった。車内はちょっとした旅行気分で、ヴェルナーとハンス君が楽しげなポピュラーソングを合唱し始める。彼らが着ている派手なアロハシャツに負けず劣らずのハイテンションぶりにやや辟易しかけるものの、助手席の水城先生が手拍子を打ちながら楽しげに笑っているので良しとした。
 目的地ではシュノーケリングなどもできるので、途中で足りない用具を買っていく運びとなった。幹線を流していて出会(でくわ)したショッピングモールに立ち寄って、子供連れの人波を縫い、海水浴グッズが置いてあるコーナーにぞろぞろと赴く。
 そこには色とりどり、大小様々な浮き輪やらビーチボールやらビーチパラソルやらが並んでおり、水着の売り場も併設されていた。海のシーズンが終盤になっているからか、シュノーケルセットは割安な価格になっている。しかし、こういう場に来ることがないため、女性ものの水着売り場の近くにいるとどうもどこを見ていいか分からなくなる。反対に嬉々として女性用水着を見て回っているヴェルナー(完全に変態である)が私に声をかけてきた。

「そういえば錦の水着ってどういうやつなの? お前に海のイメージないから何着ても面白そ〜」
「私は水着は持っていない」

 初めから海水浴をするつもりはない。当然のごとく返すと、はあ? とヴェルナーが声を高くする。

「水着も持たねえで海に行く意味ねーだろ!」
「車は出してやると言っただけだ。私は海には入らなくていい」
「そういうわけにはいかねえだろ〜、空気読めよお。ねえねえ、水城ちゃんだって一緒に入ってほしいでしょ?」

 ちょうどそばに来ていた水城先生にヴェルナーが気安く話題を振る。彼女はぴくりと肩を跳ねさせ、ちらりとこちらを窺いながら首肯する。

「えっ、ええ、そうですね……ぜひ」

 その頬が心なしか赤っぽい気がするのは見間違いだろうか。
 水城先生にまでそう言われては受け入れざるを得ない。小さく嘆息しながら私は了承した。

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