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 かつての記憶の情景が、目の前で陽炎(かげろう)のように朧(おぼろ)に伸び縮みし、やがてじわりと焦点が合い、像を結ぶ。
 昔のビデオカメラで撮影したみたいな、妙に解像度の低い自宅のリビングだ。俺は自分が未成年で、もうオイゲンさんはこの家にいないことを覚っている。いつの間にか手元に出現したいかがわしげな冊子を、ぺらりぺらりとめくっているところだ。そこへ、なぜか音を極力立てないように注意した様子で、幼いハンスが学校からそろそろと帰ってきた。

「よう、お帰り」
「あっ……た、ただいま、です」

 振り返ると、ひきつった笑顔のハンスがびくりと肩を震わせる。彼の服の腹部分は、不自然にまん丸に膨らんでいた。俺は、ははあ、と思う。

「どうしたんだ、その腹は」
「えっ、あの、お昼をいっぱい食べすぎちゃって」
「へえ? お前の腹は満腹になったら尻尾が生えんのか?」

 ハンスがぎょっとして下を見る。服の裾から白いふさふさした尻尾がはみ出し、揺れていた。俺はソファから降りて義弟に詰め寄る。おおかた、道端で動物を見つけて放っておけずに連れ帰ってきたのだろう。

「何拾ってきたんだ。犬か? 猫か? 見せてみろ」
「……」

 観念したように、ハンスが服の中から子猫を外に出した。白い長毛の猫だ。おそらく生後半年は経っていない。毛皮は薄汚れているが、目は綺麗なエメラルドグリーンだった。大人しく、ハンスの腕の中でじっとしている。

「元いたところに戻してこい」
「どうして! 可哀想だよ」
「あのなあ、飼い主がいて探してるかもしれねえだろ。外にいるから可哀想だってどんどん動物拾ってきちまったら、この家はあっという間に動物屋敷だぞ」
「こんなに汚れてるのに……飼い主いるわけないもん……もう拾ってこないもん……」
「はあ……」

 ハンスはうっすら目に涙を浮かべて俺を睨んでいる。頑なに子猫を抱いたまま。こうなってしまったハンスはもう梃子(てこ)でも動かないだろう。頭を掻きながら嘆息する。

「じゃあ、ティアハイムに預けるか」
「あのっ! この子、うちで飼っちゃだめ?」

 思わず頭を抱えそうになる。そう来ると思っていた。俺は腰を落とし、ハンスと視線を合わせる。

「あのな、ハンス。動物ってのはお前が好きなぬいぐるみとは全然違うんだぞ。ご飯食ったら出すもんは出すし、病気もするかもしれねーんだ。分かってんのか?」
「分かってるもん……」
「病気したり、年取ったら介護とかしなきゃいけなくなることもある。それでも最期まで責任持って世話しなきゃなんねえ。可愛いだけじゃあ飼えねえんだ。本当に分かってるか?」
「分かってるもん…………」

 ハンスは強情に俺を見返し続ける。その瞳が真剣な光を帯びているのを見て、俺の方が先に折れた。

「だったら、分かったよ。うちで飼ってもいい」
「本当!」
「だけどな、勝手にうちの飼い猫にはできねえ。拾ったあたりにこの猫の特徴書いた紙貼ったり、迷い猫の届け出がないか確認してからじゃなきゃな」
「うん! ありがとう、ヴェルナーさん」
「礼にはまだ早ェよ」

 にわかにハンスは張りきりだした。俺はこの先のワクチン接種やら手術やらのことを考えてちょっと陰鬱な気持ちになり、「どうせなら猫より犬の方が好きなんだけどなあ……」とひとり呟いた。
 その後子猫は晴れてシェーンヴォルフ家の一員となり、ルーエという名前を授けられるわけだが、尋ね猫の張り紙を作成する際に、こんな一悶着があった。
 張り紙用にハンスが描いていた子猫の絵を見て、俺は思わず噴き出してしまったのだ。お世辞にも上手いとは言えないどころか、生き物の絵なのかすら判別できないほどのド下手クソだったからである。
 夜にこっそり差し替えようと自分もペンを執り、一通り猫を完成させたところで、「そういや、俺も絵心無いんだったな……」とはたと気づく。
 結局、謎の生物を2匹生み出すだけの結果となり、張り紙には無難に写真を使うこととなった。
 飼い主は現れず、薄汚れていた子猫は真っ白な美猫に成長し、ルーエはハンスの最初の相棒になった。


 かと思えば、さっきまで猫と仲良く戯れていたハンスが、今度はベッドで高熱に浮かされている。猫っ毛の金髪は汗で額に張り付き、顔全体が脂汗で光っている。ここ数日、彼の高熱がなかなか下がらないのだとふと思い出す。見ている間に、どんどん具合が悪化しているようにも思え、俺は焦ってハンス、ハンスと呼びかけを繰り返す。ハンスは俺の声が聞こえていないみたいに、苦しげな浅い呼吸を繰り返しているだけだ。

「ハンス、大丈夫か? しっかりしろ!」

 このままじゃハンスが危ない。どうすればいい。どうすればいいんだ? 何も思い付かず、何も行動できない。何かで雁字搦(がんじがら)めになったように。俺はうなされながら、幼い義弟の名前を呼び続ける。ハンス。ハンス。

「ハンス!」

 その自分の切実な叫びで目が覚める。
 真っ先に見覚えのある天井が視界に飛び込んできて――今のは夢か?――混乱しながら、鉛のように重たい体に鞭打ち、首だけをぐるりと巡らせる。どこだ、ここは。見慣れた景色が広がる。ああ、俺の部屋で、ベッドの上にいるんだ。今はいつなんだろう? 頭がぼんやりして、ついでに締め付けられるように痛む。白いクリームの中で前進しようともがいているような、どうしようもない思考速度だ。節々が痛み、全身に汗をびっしょりかいていて気持ち悪い。俺はなんで自分のベッドで寝ているんだ。夢を見る前は何をしていたっけ?
 細い記憶を手繰(たぐ)ると、具合が悪くて病院に行ったような覚えがある。あれは午前中だったか。

「検査の結果、インフルエンザでした」
「あー、やっぱり?」
「薬飲んで、数日は安静にしておいて下さい」
「うす」

 仕事に行くというハンスを見送って、這うようにして病院にたどり着き、そんな会話を医者と交わした。それで薬を貰って、やっとの思いで帰ってきて、それでどうしたんだっけ?
 なんとなく額に手をやると、ぬるくなった濡れタオルに指先が触れた。唯一の同居人がやってくれたに違いない。熱を出すなんて何年ぶりだろうか。そういえば熱を出すと、決まってあいつ――ハンスが小さかった頃の夢を見るのだった。
 それにしても、インフルエンザってこんなにしんどいんだったか。辛い。寝ているのも辛い。俺はこのまま死ぬんじゃないか? いっそ死んだ方が楽かもしれない。もう一思いにやってくれ。
 体調が悪い時特有のネガティブ思考に苛まれていると、かすかな音をたててドアが開く。マグカップを手にした、夢の中の彼より相当立派に成長したハンスが入ってくる。混濁する意識が、一足(いっそく)飛びにハンスが急成長したような幻想をもたらす。

「あれ、起きてたんですね、ヴェルナーさん」
「お前、でかくなったなあ……」
「なんですか、いきなり。シモの話ですか?」
「ちげーよ……なんで今の流れでそうなんだよ」

 掠れた声で勢いよく突っ込む気力もなく、一気に脱力してしまう。昔は天使みたいだったのに、どこで道を間違えてこんなんになっちまったんだ。ずっと俺といたのが原因なのか。夢の中の幼い彼とのギャップに、無意識にふふっと笑みをこぼしてしまう。

「どうかしました?」
「いやァなに、お前が猫拾ってきたときの夢を見ててな。懐かしいなって」
「ああ……」
「あんときゃお前もちっこくてよォ、どっちが毛玉だか分かりゃしなかったぜ」
「ふふ、僕だってそんなには小さくはなかったでしょう?」

 ハンスは含み笑いを漏らしつつ、腰をかがめて額のタオルに手をやる。

「もう換えないといけないですね。スープ作ってきたんですけど、飲めそうですか」
「……おう。てか今何時?」
「15時過ぎです」

 背中を弟に支えられながら、やっとの思いで体を起こす。ミルクの匂いがふわりと鼻腔に届き、少しだけ意識が明瞭になった心地がした。と同時に、朝から何も入れられていない胃がぐううと空腹を訴える。ああ大丈夫だ、食欲があるうちは死にはしない。
 ハンスがスープを掬って食べさせようとしてくるので、さすがに断ってマグカップを受け取る。ミルク仕立てのスープに、野菜と鶏肉が溶け込んでいた。鼻づまりと熱のせいで味は今一つ分からないが、たぶん美味しいのだと思う。
 にしても、ハンスに看病されるのは不思議な感覚だった。昔は病弱ぎみだったハンスがよく熱を出し、俺の方がスープを作ったり冷えたタオルを換えたり体を拭いたりしていたのに。
 そこまでぼんやり考えて、はっとして自分の格好を見やる。確か医者にかかった時はワイシャツとチノパンだったはずだ。毛布をめくって下半身も見てみると、今は綿の長袖ティーシャツにジャージの下を身に着けている。ということは。

「……見たの?」
「はい? 何ですか、いきなり」
「俺のパンツ見たかって訊いてんだよ」
「いや、なぜパンツ……」
「やだー今日パンツ人に見せるつもりなかったから盛ってなかった気がするー。俺どんなパンツ穿いてた?」
「そこまでは注意して見てないですよ……ていうかパンツを盛るって何ですか。熱で脳みそに穴空きました? エメンタールチーズみたいに」

 にわかにハンスの目線が冷たくなる。何時(なんどき)も容赦ないな、こいつの毒舌は。

「おい、俺ァ病人だぞ。優しくしろや」
「そこまで元気があるなら大丈夫でしょ。病人なら病人らしくしおらしそうにしてて下さいよ。そういえば薬は飲んだんですか?」
「ああ……病院で1回……」
「そうですか。じゃ、食べたらちゃんと寝てて下さいね」

 義弟は呆れながらも、優しげな手つきで俺をベッドに戻してくれる。自業自得ってやつだが、ハンスと何のかんのとやり合ったら、一気に体力を消耗した気がした。
 布団の中から彼の整った顔を見上げつつ、つくづくと時の流れの不思議さを思う。少し前まで子供だと思っていた彼は、いつの間にこんなに大きくなっていたのだろう。今や家事は全部こいつがしてくれていて、片や現在の俺が家事をしようものなら、食材を炭に変えたり皿を割りまくったり電化製品を爆発させたりする始末だ。昔は指を切り傷だらけにしながらも、なんとか料理もできていたのに。当時だって食材を切っているのか、指を切っているのか判断がつかないような状態だったけれども。
 そこまで滔々と考えながら、ハンスがこちらをじっと見つめ返していることに気づく。

「ん? どうかした?」
「僕ってそんなに頼りないですか、ヴェルナーさん」
「んん……?」

 唐突な問いかけの意味を掴みかね、小首を傾げる。熱のせいか、ハンスの言葉の真意を推し量ることはできそうにない。ただ、ほほえんでいる彼の表情が、内心を反映したものでないことくらいは伝わってくる。
 ハンスが身を返し、再びベッドサイドに立つ。その顔に影が落ちる。

「仕事の打ち合わせから帰ってきてびっくりしましたよ。ヴェルナーさん、玄関で倒れてるんですもん。朝から調子悪かったんですよね? どうしてその時言ってくれなかったんですか。僕に頼り甲斐がないからですか」

 弟は俺をじっと見つめている。質問の意味をやっと理解するとともに、家に帰り着いたところで自分が気を失っていたのを知る。みっともないところを見せちまったな。気絶している身長184cm体重80キロ超えの大の男をここまで運び、あまつさえ着替えさせるのは相当骨が折れたことだろう。そんな芸当ができる立派な男を、頼りないなんて思うわけがない。しみじみとした感嘆が漏れてしまう。

「お前……立派になったよなあ……」
「今度のはシモの方の意味ですか?」
「だから、ちげーよ」

 本当にこいつは下ネタが好きだな! 俺も好きだけどさ。
 なんで頼らないのか、か。そんなの理由は決まってる。だけどそれを口に出すのは少し気が引けて、毛布を口元まで引き上げ、ハンスから視線を外す。

「……お前が頼りないとかじゃなくてさあ……だって、年下に助けを求めるとか、かっこ悪ィじゃん……」

 極限まで熱くなっていたはずの顔が、限界を突破してさらに熱を持つのが分かる。俺のぼやきを聞いたハンスは、一瞬目を見開いたあと、頬を膨らませてぷっと噴き出した。ほっとしたような、心底愉快そうな顔で。

「今さら何言ってるんですか。あなたの身の回りのことは全部僕がやってるし、あなたのだらしない姿もたくさん見ているのに?」
「それとこれとは違うもんなんだよ……兄貴は弟の前ではかっこつけたいの。分かれよ」

 10年以上一緒にいて、自分が弱ってるときに今さらこいつを頼るなんてあまりにも気恥ずかしい。恨みがましくハンスを睨(ね)めつけると、そろりと手が伸びてきて頬に添えられた。ひんやりした指先の温度が気持ちよかった。

「そう言わずに頼ってくださいよ。体調が悪いときくらい、つまらない意地なんか張らないで。ね、ヴェルナーさん」
「んー……まあ、考えとく……」

 遠くから眠気がやってくるのを感じながら、こいつはどこまで俺を甘やかせば気が済むのだろう、と考える。俺がもう家事がまともにできないのだって、ハンスが全部先回りして家のことを済ませてきたからではないのか。つまり、彼はいつからか俺を無力化しようと策を弄して、その結果が兄のこの体(てい)たらくというわけだ。そんな可能性に思い当たり、半目の向こうにいる10年来の同居人の顔にぼんやり見入る。
 俺はこいつに――義弟であり同居人であり仕事の部下であるハンスに――飼い慣らされている気がする。
 ハンスが表情に疑問符を浮かべた。

「僕の顔に何かついてますか?」
「ああ……綺麗なお顔がついてるぜ」
「そういうことじゃなくて……」
「お前ってさ、昔は俺がしてたことを今全部やってくれてるよな……。そんなんだから、俺はどんどん駄目になって、何もできなくなったんじゃないか、って……思って……」

 靄がかかってくる思考そのままに、さっき抱いた疑念を口に出す。ハンスはそれを聞くと、どこか勝ち誇ったように口の端をにんまりと歪ませた。優しげなのに嗜虐的にも感じる、その笑み。

「ああ、気づいちゃいました? その通りですよ。一人で何もできなくなったら、ヴェルナーさんは僕から離れられないでしょ?」
「え……怖(こわ)……」

 嘘だろ。まじなのかよ。何のためにそんなことを。熱由来ではない寒気に体をぶるりと震わすと、「なんてね。冗談ですよ……たぶんね」底知れぬほほえみを湛え、ハンスが意味深なことを付け足す。その後に「僕なしじゃ生きていけない体にしてあげますよ」と囁かれた気もしたが、高熱のせいで朦朧とした脳が幻聴を聞かせたか、悪い白昼夢を見せたか、そのどちらかにしておきたい。
 いずれにせよ、しんどさも眠さも限界だ。俺は力なく顎を二、三度しゃくってドアを指す。

「もうお前、ここから出てけよ……伝染(うつ)るぞ」
「はいはい。でも僕に伝染ったらそのときは、またヴェルナーさんが看病してくれるでしょう?」
「……まあな」
「ふふ。それじゃあ、お休みなさい」

 寝室を出ていくハンスはなぜか満足げだった。ドアが閉まったのを確認して、とうとう重い瞼を閉じる。まったく、年上をおちょくりやがって、あの野郎め。それでも、そんなに悪い気はしていなかった。彼に飼い慣らされているのでは、と疑いを持ったのにも関わらずだ。結局、ハンスに甘やかされている今の生活が、何だかんだ心地いいってことなんだろう。
 ――あいつ、昔から生き物を懐かせるのが上手だったからな。
 俺の意識は睡魔に誘(いざな)われて深い底へと沈んでいく。今度は余計な夢を見ないようにと願いつつ、たまにはハンスに頼ってみるのもありかな、なんて考えるのだった。


――正しいいきものの飼いかた

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