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 先に殴られたらこっちのものだ。
 鼻の奥から、錆に似た臭いとともに熱い鮮血が迸る。鼻血を受け止めた右手が真っ赤に染まるのを、俺はどこか他人事のような気持ちで眺めていた。路地裏で俺を囲む青年たちが、一瞬動きを止めている。近くにあるぼろっちい街灯が、スポットライトのように小競り合いの現場を照らし出していた。
 俺は歪んだ笑いを自分の口に貼り付け、場に居並ぶ青年たちを睥睨する。

「手ェ出したのはそっちだからな」

 拳を鼻に食らってにやにやしている俺を不気味に思ったのか、彼らの動きが停止している間に反撃に出る。
 景色が霞む。まずは近場の奴からだ。頭突きを顎にお見舞いし、ちょうど目に入った手を捻り、そのまま指の骨をへし折る。嫌な感触が手に伝わって、呻き声が耳朶(じだ)をかすめる。そんなものはさて置いて、全身を沈ませ、その反動で強烈な体当たりを食らわす。そして、屈んだ際に掴んだ砂利を、俺を囲む無数の目めがけて投げつけた。面々が動揺したところに、旋風のように回転しながら、体重を乗せた正攻法な拳や蹴りを正確に目標へ打ち込んでいく。
 こんなとき、ドイツの法律が先にやられた方に優しくて良かったと思う。
 頭が沸騰する。反撃を数発貰いつつ、俺はどこかで期待もしていた。十四の俺の中には燃え盛る火がうねっていて、いつでも自分の熱に焼き尽くされそうになっていた。業火は耐え難い衝動となって、俺を暴力的なステージへと押し上げる。心のどこかで、自分より強い奴が現れるのを求めていた。渇望していた。熱烈に。切実に。悲しいほどに。
 さあ。早く。
 誰でもいいから。
 俺の中の炎を鎮めてくれ。
 しかし、俺のそんな思いも空しく、相手は完全に及び腰になっていた。数人が伸(の)されて残りの男たちが逆上するかと思ったのに、尻尾を巻いた犬もかくやとばかりに散り散りに逃げていく。
 急に路地の向こうの、大通りの車のエンジン音が聞こえるようになった。倒れてぴくりともしない青年たちを見回して、少しだけ切れた息を整える。急速に体の炎が小さくなり、それよりおとなしい、しかし温度は遥かに高い青白い炎に変貌するのを感じる。
 これは失望感なのだろうか。ぼろぼろになるまで叩きのめされるのを、俺は待ち望んでいたのかもしれない。
 警察にパクられたのは、その夜で5回目だった。


「あれは正当防衛だ。俺ァこれっぽっちも悪くないね」

 養父が身元を引き受けに来るまで、俺は警察相手にそれしか言わなかった。明朝になってから警察署にやってきた養父のオイゲンさんは、顔を合わせるなり俺の頬を殴った。それも本気で。
 やかましい騒音をたてながら、俺と椅子はその場に倒れこむ。警察の建物の中で、しかも警察官も立ち会っているというのに。警察官は眉すらぴくりとも動かさず、深海鮫に似たのっぺりとした目で俺たちを眺めているだけだ。
 頭おかしいんじゃねえのかこのジジイ、との気持ちを込め、転げ落ちた床の上から己の養父を睨(ね)めつける。
 拳の苛烈さとは裏腹に、祖父ほどの年齢の育ての親は、静かな瞳をしていた。髪も頬髭も真っ白で、顔にはたくさん皺が走っているのに、立ち姿は驚くほどがっしりとしている。深い緑色の双眸がこちらを見下ろしていた。

「ってえな、何すんだよ」

 殴られた箇所を掌で押さえたら、咥内に血の味が広がった。
 オイゲンさんがゆっくりと頷くような仕草を見せる。

「そうじゃ。殴られたら痛いだろう。わしは今、お前の痛みを感じている。お前の痛みを、自分のもののように生々しく感じているんだ。力を使う者は、相手の痛みを想像できねばならん。しかし、お前はそうではないだろう。お前は力を振るうだけ。相手を顧みようともしておらん。それでは持っている力を使う資格はないのだ。力を持つ者はな、相手に寄り添わなきゃいかん。相手の痛みが分からないなら、拳を握るべきではない。それが責任というものじゃ」

 オイゲンさんはこんこんと言い含めるように言った。教育的指導なら聞き飽きている。聞き飽きていたが、その頃の俺にはオイゲンさんの言葉の意味がよく分かっていなかった。

「意味わかんねえこと言ってんじゃねえよ」
「分からんなら、お前はそこまでの男じゃ。今の弱さのまま、それ以上強くはなれんぞ」
「……ッ」

 かっと頭に血が昇る。当のオイゲンさんに体術を教わっていたから、そこらの大人より強いという自負があったのだ。弱いと言われて、思わず逆上してしまう。

「腹が立つのは未熟な証拠じゃぞ。……なあ、ヴェルナー。いくらわしが口添えをするからといって、お前の振る舞いはもう、個人の手に負えないところまで来ている。このままお前が変わらんのなら、わしはお前を牢屋にぶちこむことだって厭わんぞ」

 それが仮にも親の言うことなのかよ。反発心を込め、長年烈風に曝(さら)されて育った老木のようなオイゲンさんの顔を睨む。養父はもう何も言わない。
 牢屋に入れられたら。それは俺だって困る。そんな事態になったら、毎日のように通っているあの場所へ行けなくなる。あそこは、芳しい香りの漂うあの部屋は、俺の精神安定剤(トランキライザー)のような存在なのだ。狭い暗いところに閉じ込められたら、きっと発狂してしまうに違いない。

「……分かってるよ、んなことは」

 理知的な緑の目から視線を逸らし、不承不承頷いた。

「うむ。帰るか、ヴェルナー」
「……うん」

 ごつごつした手が差し出されるけれど、気恥ずかしくてその手を取ることはできない。オイゲンさんの横を抜けて、先に警察署のドアをくぐる。オイゲンさんも立ち会いの警察官も、何も言わなかった。


「時にヴェルナーよ。まだ好きな女の子の一人もおらんのか」

 唐突に問われ、自動車の車窓からシュプレー川沿いの朝の街並みを眺めていた俺は現実に引き戻される。オイゲンさんは年代物のビートルのギアをガコガコ言わせながら、ちらちらと俺の方を見ていた。先ほどの厳しい目付きと異なり、好奇心丸出しの、ティーンの男子のような両目が輝いている。

「いないよ、そんなの」
「気になる女の子もおらんのか?」
「だって学校に行ってないんだぜ。同年代の子と知り合う機会だってほとんどないってのに」
「そうじゃのう。お前を学校に行かせなかったのは良くなかったかもしれん」
「なんでだよ。勉強はオイゲンさんが全部見てくれてるだろ」

 オイゲンさんがそうじゃないそうじゃない、とハンドルの上で片手を振る。

「学校に行っていたら自然と同年代の女の子に恋もしていたろう。初恋も経験せずに体だけ先に行ってしまうなんてとんでもない。言語道断じゃ」
「はっ。初恋ねえ」

 反射的に鼻で笑ってしまう。もう異性の味は知っていたけれども、恋がどういうものだかは理解していなかった。そりゃ色っぽいお姉さんを見たらヤらせてくれないかなとは思うが、好きという感情がよく飲み込めないのだ。女性は好きだけれど、特定の個人に対して好きだと感じたことはない。恋とか好きとか、そんなに大事なものとも思えない。下半身が反応するのが恋なのか、と問うた時にはオイゲンさんが頭を抱えていた。

「ヴェルナーよ、恋をしろ。お前にはきっと、それが足りん」

 老齢の域に差し掛かってもなお、女性とお茶をするのが何よりも大好きな我が師は、真剣な顔で前方を見つめながら言葉を投げかける。
 ――恋ねえ。そんなにいいものなのかなあ。
 再び思索に戻る俺の耳に、ぽつりと漏れたオイゲンさんの呟きが届く。

「『命短し、恋せよ少年』」

 響きからして日本語のようだったが、まだ日本語は詳しく教わっていない。首を傾げて養父を横目でうかがう。

「イノチミ……?」「ほっほっほ。爺の独り言じゃ」「日本語だろ。どんな意味」「ほっほっほ」「なんだよ……」「ほっほっほ」

 家に戻ると、一人で留守番をしていたハンスがパジャマ姿のままとてとてと玄関まで出てきた。オイゲンさん、ヴェルナーさん、おかえりなさい、と俺たちを迎える声は澄んだボーイソプラノだ。7歳の彼はオイゲンさんのもう一人の養子であり、俺の義弟にあたる。まだこの家に着て数ヶ月なので、俺はそこまで馴染めていない。
 オイゲンさんが初めてハンスを連れてきたときはそれは驚いた。ラファエロの絵画のような、それこそ絵に描いたような美少年で、輝かんばかりの金髪碧眼が眩しいほどだったからだ。なのに名前が爺さんみたいなので割と今でも違和感がある。彼の親はどういうつもりで名付けたのだろう。尋ねたくても、交通事故によって天上の人となった人間からは何も聞き出せやしないが。
 長すぎる睫毛に縁取られた、ハンスのくりくりした青い眸が俺を捉える。途端にその薄い眉が曇った。

「ヴェルナーさん、ほっぺた痛そう……。大丈夫?」

 ふと頬に手をやると熱を持って腫れている。これは昨夜の喧嘩の名残などではなく、お前が大好きなオイゲンさんにやられたんだよ。などとはわざわざ口に出さない。ああ、まあ大したことないよ、とぞんざいに返事をしてそのまま自室に向かう。警察署では寝られていないのですごく眠かったのだ。まだ何か言いたげなハンスの両目が追ってくるが、面倒だったので気づかないふりをした。

「ヴェルナーさん……」
「ハンス、そろそろ着替えて出ないと学校に遅刻じゃぞ」
「あっ、はい!」

 とてとてと軽い足音が遠ざかっていく。ハンスは素直だ。オイゲンさんにとって、反抗ばかりしている俺はさぞ厄介者で、悩みの種に違いない。だからといって、今さら従順な素振りもできるわけがない。
 養父への鬱屈した思いを抱えたまま眠りに落ちると、そのまま夜まで目覚めなかった。

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