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 幸せな悪夢。
 それがどんなものだか、想像できるだろうか。


 ふと目が覚めると、周りには色濃い夜が満ちており、自分が第一部隊の人間で、つい先刻まで草地でうたた寝していたことに気づく。
 さて、自分は影を辞めて、日本に帰ってきたのではなかったか、と頭をぼんやりさせているところに、凜と涼やかな声が降ってくる。
 ――どうした、錦。居眠りかい?
 振り仰げばそこには、闇の中でも輝く美しい銀髪をなびかせ、優しげなほほえみを湛(たた)えたルネがいる。
 我が上官。我が最愛の人。
 しかし、覚醒しきっていない脳が、彼女は死んだはずだと告げてくる。
 ――ルネ……君は、死んだんじゃあ……。
 ――死んだ? 私が? まさか。まだ寝ぼけているんだろう。
 ルネが肩を竦めて私の言葉を一笑に付す。そうか、そんなわけないな、ルネが死ぬなんてありえない。はは、と力なく笑ってみせる。
 ――ほら、いつまでぼんやりしてるんだ。行くぞ、錦。
 ――あ、ああ。今行く……。
 ルネはさっさと踵(きびす)を返して歩き始める。私も腰を上げ、彼女に着いていこうとする。
 でも、それができない。
 歩けども歩けども、ちっとも前に進めないのだ。
 ルネの背中がどんどん遠ざかっていく。がむしゃらに足を動かすが、周りの景色は全く変わらない。遠くの方でかろうじて、銀髪が揺らめいているのが見える。息が弾み、動悸がしてくる。ルネの姿は夜に溶け、もうほとんど見えない。私は喘ぎ、足をもつれさせる。まるで泥濘(でいねい)の中でもがいているように、進まない。進まない。進めない。
 お願いだ。私を置いていかないでくれ。
 ――ルネ、

「待っ――」

 そこで本当に目が覚める。
 私は影を辞め、日本に帰ってきていて、ベッドの上に半身を起こしている。わななく右手は縋るように前方に伸ばされており、全身が悪い汗でびっしょり濡れていた。呼吸は荒く、心臓がどくどくと嫌に脈打っている。
 家の中には空虚な暗闇が満ちていて、自分の息づかい以外、何の物音も聞こえない。
 彼女は死んだのだ。そう、この腕の中で。
 ルネの夢。とても幸せな夢だった――いずれ醒めるという一点を除けば。幸福の残滓が突きつける彼女の不在に、私の心はずたずたに引き裂かれた。何度目か分からないルネの死に打ちのめされた私は、彼女の幻影を見せる己の脳機能を憎悪した。
 胃液がせり上がってきて口を押さえる。こんな時でさえ涙の一滴も流せないなんて、どうかしていると自分を罵りながら。


 影を辞めて地方大学の3年次編入生となった私は、ぎくしゃくしながら一般的な日本人としての生活を始めた。
 初めは何もかもが薄っぺらい作り物のように思えた。同期たちが些細なことで笑い、悩み、愚痴をいうのに、強烈な違和感を覚えた。22歳で大学3年となった私は、多くの同学科の人間よりひとつ歳上であり、それを疎んじられて孤立できるかと思っていたが、彼らは年齢差など拘泥せずに、私に気さくに話しかけてきた。
 彼らが話す好きなテレビやアーティストや俳優や映画に関する言葉は、まるで異界のもののように自分には響いた。話題を振られてもうまく言葉を返すことができず、同期は私を寡黙な男だと思っているようだった。
 私には何もかもが眩しかった。キャンパスを彩る緑も、噴水の周りで憩う学生たちも、昼の時間に食堂を満たす若々しい笑い声も、老教授の子守唄めいた声が響く講義室の気だるい空気すらも。眩しくて眩しくてたまらなかったので、私は目が悪いわけでもないのに眼鏡をかけることにした。縁の太いセルフレームは視界を――世界そのものを狭めてくれたし、外界とのあいだに透明な膜を介することでようやく、私は世界と向き合えるようになった。
 喫煙者になったのも、大学生の身分を得て間もない頃のことだった。
 最初に手を出したのは、養父の遺品のシガレットケースに入っていた煙草だ。養父はいつもそのケースとオイルライター、それに携帯灰皿を持ち歩いていた。一式を拝借し、見よう見まねで火を点けてみて、途端に噎せこむ。煙が目に沁み、こんなものを好きで吸っている人間の気が知れない、と思いながら初めての一本を吸い終えた。養父の煙草の美味さは微塵も分からなかったが、それでも別の銘柄を味わう気にはならなかった。
 煙草を吸って、自分の体を痛め付けているのだと考えると少しだけ気が晴れた。狂った思考回路だが、生よりも死に親近感を抱いていた当時の自分にとって、喫煙とは緩やかな自殺であり、慕わしいものへ近づく行為だったのだ。紫煙で肺を満たしながら、私は得体の知れない暗い光が差してくる幻覚を見た。
 食欲も極端に減退していた。何を見ても吐き気を催してしまい、特に肉類は匂いさえ受け付けなくなっていた。筋量も下降の一途をたどり、己から戦うことを除いたら何が残るのか、さっぱり分からなかった。そもそも自分の存在意義とは何だったのだろう? そんな遅咲きの青い懊悩を胸に、昼休みは食事をとることもなく、時間潰しに総合大学の広いキャンパス内をあてどもなく逍遙(しょうよう)していた。
 それがまずかった。

「桐原くん」

 昼休み前の講義である3限が終わると、数学科の同期の女子学生に話しかけられた。髪を染め、毎日違った髪型と流行の服装で大学に来ている"まっとうな"学生だ。私は相手の名前を把握していなかったため、反応に窮した。
 彼女はまごついている私に頓着せず、どこか思い切った様子で尋ねてくる。

「桐原くんってさ、いつもお昼食べてないよね? もしかしてお昼以外もちゃんと食べてないんじゃない?」
「そんなことは」

 ない、と嘘を吐けばいいものを、即座に否定できない自分がいた。
 うろたえていると、ねえ、と相手が勢い込んでくる。

「よかったら私、桐原くんのぶんもお弁当作ってこようか? いつも自分の作ってるからさ、一人も二人も大して変わんないし。時間が合ったら夕飯も一緒に食べたりしようよ」

 女学生のまぶたに乗ったきらきらしたものが見える。甘ったるい香水の香りが鼻腔に侵入してくる。やめてくれ、と思った。そんなに輝いた目で私を見ないでくれ。私に笑顔を向けないでくれ。胃のあたりがぐるぐるする。
 気持ち悪い。

「桐原くん……?」
「いや……すまないが、一人にしてくれ」
「え……」

 固まる女子学生を放って、トイレに駆け込む。気持ち悪い。五感で感じるものすべてが、気持ち悪い。
 ほとんど吐くものも入っていないのに、吐き気が治まらない。


 最も気の落ちようが酷かったのは、教師に採用されてから2年目の、25歳になった頃――そう、ルネが殉死した年齢だ。
 当時の彼女はあんなに頼もしく、大きく見えたのに、年齢だけ追い付いた自分はあまりにも未成熟で、何者でもなく、開いた掌の中は空っぽだった。これまでの自分の人生を顧みて、彼女のあまりにも短い一生に愕然とする。
 私は何百何千回も繰り返してきた自問を反芻した。偉大だった皆の指導者が亡くなり、こんなに何も持たない自分が生きている。なぜ彼女が死ななければならなかったのだろう? 彼女がいないのに、私がのうのうと生きていられる訳は何だろう? 問いばかりが堂々巡りして、鬱々とする思考がまた己の精神をざりざりと抉っていく。救い上げてくれる手など期待もしていなかった。当時の私はおそらく、生を否定することでしか生きられなかったのだ。
 ルネは今際に「私を忘れてくれ」と言ったが、そんなことが自分にできるはずもなかった。私にはルネしかいなかったのに、そう簡単に忘れられるはずがあろうか。しかし同時に、それはルネの最期の頼みを叶えられないのと同義だった。私は板挟みになって苦しんだ。職場で一介の教師として忙しくしているあいだはまだましだったが、帰宅してからの時間は最低だった。
 気づけば、とんでもない数の煙草の箱が空いていた。
 生きなくていい理由を探す己に気づく夜があった。白く霞む自室でふと我に返り、自分の存在の無意味さに箍が外れたように嗤(わら)う夜があった。無意識のうちにベランダから地面を見下ろし、ここからでは運が良くなければ死ねないなと考える夜があった。
 その頃、同僚が自分について話しているのを耳にしたことがある。

「桐原先生って、若いのに暗くてちょっと怖いよね」
「私もそう思ってた。何考えてるか分からないっていうか……」

 そうだな。私にだって自分が何を考えているか分からない。
 そんな会話を聞いても悲しくも悔しくもなかったのは、当然の事実そのものだったから。私の感受性は弾力を失い、どんな言葉がぶつかっても形を変えなくなっていたから。
 どうして自分が生き続けているのか分からないものの、それでも自分は、積極的に死ぬなんてできないと薄々分かっていた。臆病者だから。敗走者だから。それゆえ私は、深海底で魚がじっと水圧に耐えるが如く、一日一日を忍ぶように生きた。
 希望とも言えないささやかな光は、影から唯一持ち帰った、茅ヶ崎龍介という名前。その一点だけだった。
 "罪"に狙われる可能性から、彼は年若い人間だろうという予測はあった。おそらく教師と生徒として巡り会うだろうことも。ただ、すぐに顔を合わせるのではと思っていたのに、幾春が過ぎても彼は目の前に現れなかった。今思えば、影を辞してすぐに彼と会えても、まともに向き合うのは不可能だったに違いない。そこに影側の何かしらの配慮がはたらいていたのか、偶然なのか、どちらにせよ真相は藪の中だ。
 死ぬにしても、彼の姿を一目見届けてからでも遅くはないだろう。そんなことを考えていたら、教師となって6度目の春になっていた。


 春の麗らかさは凍てついた思い出さえ融かす。だから好きになれないと思っていたのに、徐々に心境が変化するのを自覚してもいた。体を千々に裂かれるほどの悲嘆、そのただ中にいた私は8年経って、やっとそこから抜け出していた――と言っても、上半身だけほどだったが。それでも、悲しみの全容を、感情全体の大きさを、悲嘆の外から見つめられるようになっていたのだ。
 その頃には食欲の減退も、同僚とのあいだに生じる軋轢も、山と積もった煙草の吸殻を前に呆然とすることも、ほぼなくなっていた。このまま自分の心はフラットになっていき、全ての感情が抜け落ちていくのかもしれない。それはそれでいいかと感じていた。
 そして、その日は来た。
 自分の受け持つクラスの新入生名簿に書かれた、待ち望んでいた五文字。知らず手が震える。何度も唇でなぞったその名前で、体に染み付いてしまった響きで、初めて彼を呼ぶ。
 窓の外では、桜の枝が春風に揺れている。

「茅ヶ崎、龍介」

 その声が震えなかった自信が私にはない。
 頬杖を突き、外の景色に目をやったまま、その男子生徒はややあって、はい、と控えめに答えた。前髪がほとんど目を隠していたが、その視線が何をも射抜くような鋭さを持っているのが分かる。天啓に打たれたように、何秒間か身動きも呼吸もできなかった。
 ――似ている。私に。かつての私に。
 私はその時、初めて目を開けた。全てが鮮やかな色で塗り替えられていくのを、初めて目を開けて見たのだ。
 その瞬間のことを、私はきっと生涯忘れはしないだろう。

――めざめ

BGM
 スピッツ「めざめ(空も飛べるはず)」
 サカナクション「目が明く藍色」

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