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 気軽に会うことさえ叶わない俺たちにとって、ありふれた幸せの形をなぞることが、普通の幸せへの道筋なのだと考えていた。


 最愛の人の目の前で跪(ひざまず)く。掌に乗せた小箱を開くと、相手が小さく息を飲むのが分かった。
 シューニャの隠れ家の、一番大きい広間。今ここにいるのは、鈴と自分の二人だけだ。いつもはシューニャがぶつくさ言いながらお茶飲みに使う空間で、一大決心を実行に移すにはロマンチックのロの字もないが、自由に外出できない鈴を思えば他に適当な場所もない。加えて自分はこういう気障な振る舞いをする柄じゃないと自覚もしている。しかし俺たち二人にとって、ベタなことが何より大事なのだ。
 我々にとっては、“普通の幸せ”が何より遠い。
 膝をついたまま、鈴、と愛おしい名を呼ぶ。いつもとは逆に見上げる顔が、緊張のためか強張っていた。す、と浅く息を吸い、

「君を愛している。俺と結婚してくれないか」

 そう、一息に言った。もっと声が震えるかと思っていたけれど、すんなり最後まで言えたのは自分でも意外だった。
 鈴は目を丸くし、両手で口元を覆う。その指先はわなないていて、表情がくしゃりと歪んだかと思うと、目尻から雫が伝い始める。泣かれるとは思っていなかった俺はにわかに慌て、鈴、と言いながら思わず立ち上がっていた。そっと細い肩を抱くと、消え入りそうな声音で、ごめんなさい、と言うのが聞こえた。
 ――ごめんなさい?
 その一言で目の前が真っ白になりかける。俺は拒否されたのだろうか。一生一緒にいたいほど想っていたのは、自分だけだったということだろうか。指先が急速に冷えていく。

「鈴……ごめんなさいって、それは……」
「あ、いえ、違うのです!」

 呆然とする俺の前で、今度は鈴が慌てた。ふるふると頭(かぶり)を振ると、目の縁に留まっていた涙が筋となって伝い流れる。その様子を、脳のどこか遠くで綺麗だな、と感じていた。

「さっきのごめんなさいは、泣いてしまってごめんなさいという意味で……。この涙は、びっくりと嬉しさの両方の涙です……嫌なんてこと、ありません」
「――それなら」
「はい。あの……不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」

 頬に筋を残したままの鈴がうっすらと笑み、ぺこりとお辞儀をする。
 先ほどとは裏腹に、胃の腑から熱さと愛しさが込み上げてきた。突き上げる衝動そのままに、華奢な体をぎゅうと抱き締める。感極まって涙腺が緩んでいたが、なりふり構ってなどいられなかった。

「ありがとう」

 耳元で囁くと、小さな頷きが返ってくる。
 体を離したら、鈴の大きな眼(まなこ)はまだ潤んでいた。きっと自分も同じような顔をしているだろう。泣き笑いの顔を見合わせながら、先刻差し出した指輪を、鈴の細い薬指に通していく。小粒の宝石が外と内にあしらわれたシンプルな指輪は、あるべき位置にぴったりと嵌まってくれた。それをじっと見つめる鈴が、綺麗、とぽつりと呟いた。

「サイズがぴったりで良かった」
「大切にします。……そういえば少し前、シューニャ様がわたくしの手を測っておられましたわ。もしかして……?」
「う……。まあ、そうだ。医者のシューニャならそういうことをしても不自然じゃないと思ってね、頼んでおいたんだ。今日まで君には秘密にしておきたかったからね」

 ばつが悪い心持ちで頭を掻く。鈴はふふ、と鈴を転がすように笑ったあと、ふと真剣な調子で俺の名を呼んだ。

「セルジュ様」
「うん?」
「わたくしも――あなたを心から愛しています」
「鈴……」

 頬に朱を散らし、寄り添ったままで想いを伝えてくれる鈴が愛おしくて、顔を寄せる。こんなに幸せなことがこの世にあっていいのだろうか。
 甘く温かい至福に浸っていると、どこからともなく拍手の音がぱちぱちと響いてきた。
 はっとして振り向く。いくつもある広間の扉はいつの間にか全て開け放たれていて、この隠れ家の十数人の住人、そのおそらく全員が、優しげなほほえみをたたえながらドアの向こうでてんでに手を叩いているのだった。

「おめでとうございます!」
「おめでとう!」
「お幸せに!」
「もしかしてみんな、全部聞いていたのか……?」

 いつもはむっつりして小言ばかりぶつけてくるシューニャまでもが、表情を緩めて拍手をしているのだから苦笑しか出ない。
 鈴はどういう反応をしているかと見ると、見られていたのがよほど恥ずかしかったのか、両手で完全に顔を覆ってしまっていた。けれど、真っ赤に染まった耳が髪のあわいから覗いていて、彼女の感情を如実に物語っている。俺の妻になる人はなんて可愛いんだ。
 衆人の中から子供のような体躯のシューニャが歩み出てきて、冴えた灰色の瞳で俺を見据える。

「また鈴を泣かせおって。本当にろくでもない男じゃの」

 俺にはその言葉が冗談だと分かるから、軽く肩を竦めるだけで返事とする。
 シューニャはすぐ俺への興味を失ったように、鈴へと体の向きを変えた。

「さて、鈴よ。この男の気に入らんことがあったら遠慮なくわしに言うのじゃぞ。性根を叩き直してやるからな」
「あんたなあ……」
「うふふ、分かりました。でもこの涙は、嬉し涙ですよ」
「言われんでも分かっておるわい」

 シューニャが鼻を鳴らすと、居合わせた面々が漣のように笑い合う。顔をまだ赤らめたままの鈴も、肩を揺らしてころころ笑う。俺は愛する人の細い体をそっと抱き寄せた。
 善良なる人々からの祝福に包まれて、俺と鈴はいつまでも幸せを味わっていた。


 気軽に会うことさえ叶わない俺たちにとって、ありふれた幸せの形をなぞることが、普通の幸せへの道筋なのだと考えていた。
 そしてその考えは、きっと間違っていない。

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