※グロテスクな表現、猟奇的な表現があります。



 先生の家のどこかに、それらは保管されている。
 骨格。筋肉。心臓、肺、肝臓、腎臓、胃腸、膵臓、脳などの、体内に埋め込まれていた人間の各器官。眼球、歯列、舌、耳、鼻などの、顔面を構成するパーツ。すべては綺麗に独立し、適切に保存され、永遠の沈黙を保ったまま透明な瓶の中に浮いている。全身を解剖される前に、屍体が浮かべていた表情を象(かたど)った蝋か石膏のデスマスクも、同じ部屋に安置されている。
 デスマスクには、穏やかな眠りの顔が写し取られていることだろう。それは穏やかなだけでなく、恍惚とした、幸福な表情でさえあるかもしれない。
 先生の家のどこかにある、"僕"の体の一部分たち。
 その想像は、僕を温かく満ち足りた気持ちにさせてくれる。

 いつからだろう、僕が先生に腑分(ふわ)けされたいと願うようになったのは。

 こと受動的な倒錯人間というのは、おおよそ光を浴びる機会というものがない。
 レクター博士のように、好んで人肉を食する猟奇人間は大々的に映画の題材にだってなりうる。僕のように変態的な願望を持ちながらも、社会的には凡庸な大学院生として日々を過ごしている人間は、どこまでも日陰の存在だ。それでも、僕らは確実に存在している。学校に、会社に、家庭に、善良な市民の隣に。
 僕の目には、何年も前から先生しか映っていない。
 先生。僕が所属する研究室のボス。四十そこそこで教授となった優秀な研究者。
 今日も、若い学部生の前で実験の説明をする先生を後ろ斜めから見やる。この角度は、ティーチング・アシスタント(TA)としてこの場にいる僕だけの特権だ。先生は白衣すら羽織っておらず、糊の効いていないシャツにジーンズというよく見る研究者スタイルである。
 僕はいつもこの位置から、彼をじっと見てきた。髪は短めに刈り込まれ、白いものが混じってところどころが銀色に光るのがなんともセクシーだ。黒縁眼鏡の奥の瞳には、常に冷たく理知的な光が宿っている。学生時代には意外にも体育会系のサークルに所属していたらしく、今は薬品で怪我をしないよう長袖の下に隠されているが、その腕は存外に太く逞しい。研究室に所属していない学部生には知る由もないけれど、先生は学会の研究発表において、ぱりっとしたスーツをさらりと着こなし、とても洗練された雰囲気を纏う。その追想が僕の胸をざわつかせた。
 先生と僕は淡々と学生実習の準備を進める。学生たちがどこか浮き足立っているのは、本日の内容がマウスの解剖実習だからだろう。イカやカエルを解剖した経験はあっても、哺乳類相手というのはやはり、特別だ。
 筋が浮いた先生の無骨な手が、手際よくマウスを処理していく。頸椎を脱臼させるのにいくらもかからない。粛々と命を終わらせていく先生の手さばきに、僕は毎度のごとく見とれる。
 ピンセットと鋏(はさみ)を握るまでは怖々と怯(ひる)んでいた様子の学生たちも、いざマウスのおなかを切って腹膜の中を覗く段に差しかかると生き生きしてくる。マウスの体の中には小さいながら立派な臓器がみっちりと詰まっていて、その精緻さに心打たれるのだろう。
 ただし、学年に二人くらいは解剖を生理的にまったく受け付けない学生がいて、それは――これは偏見でなく僕の経験則だが――男子学生であることがほとんどだ。女子学生は最初こそ不安そうに瞳を揺らしているが、解剖が進めば口元には笑みさえ浮く。
 実習で学部生にたくさんの知見をもたらしてくれたマウスたちも、その時間が過ぎてしまえば廃棄物になってしまう。それを悲しいとか、可哀想とか思う気持ちは僕の中にもまだある。そして、先生にも。
 僕は大学のキャンパス内にある実験動物の供養塔の前で、毎日のように頭(こうべ)を垂れる先生の姿を知っている。
 手を合わせてじっと佇む後ろ姿。殺した相手を悼(いた)むという矛盾。悼んでおきながらまた殺さねばならないという、宿命にも似た使命。そのずっしりとした重さを、先生は負っている。
 だからこそ、僕は先生に腑分けされたいのだ。
 彼にこの軆(からだ)を献じたいのだ。
 何にも動じない冷ややかな視線が、僕の屍(しかばね)に注がれているところを想像する。先生の器用な手は、僕の全身を手際よく、そしてやすやすと解体していくだろう。僕というひとつの肉体だったものが、名前の付けられたたくさんの器官に小分けされ、ドラスティックな変化を遂げていく。
 そうして、僕の体のすみずみまで触れ、外側の皮膚の手触りから内側の血管の配置までを感じてほしい。冷徹な脳のシナプスに、僕という存在のすべてを焼き付け、決して忘れないように強く刻みこんでほしい。
 それが僕の、唯一の幸福のかたちだから。

 先生。
 あなたは覚えていてくれますか。切り開かれた体から覗く、脂肪のてらてらした白さ、そして血潮の通う筋肉の生々しい赤さを。体内から立ち上(のぼ)って鼻腔をくすぐる、哺乳類に特有なえも言れぬあの匂いを。腹膜の中に整然と並ぶ、つややかな光を帯びた臓器たちの温かさを。うっすら桃色に色づいた、完全に死に絶える前の骨の淡い色を。
 僕のすべてを。
 あなたは覚えていて下さるでしょう? ねえ、先生。

――献軆(けんたい)

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