こんなものはそう――幻だ。幻想に決まってる。
 体の上に男が馬乗りになって、俺の喉首(のどくび)を締め上げている。あまりにも苦しくて涙が止まらない。口が、喉が、脳が、肺が、全身が、体を巡る赤血球が、酸素を渇望している。苦しい、助けて、と声を出すことも、僅かに喘(あえ)ぐことさえできない。目の前に変な光がちかちかと瞬き始める。
 喉には節くれだった指がぎちぎちと食い込み、絡みついていて、自分の指は力なく男の肌の表面をひっかくだけ。白い天井の下、男の顔は逆光となっているのに、両目はぎらぎらと輝いているのが分かって、その奥にはありありした殺意が揺らめいている。あからさまな憎悪、はっきりした敵意。俺の意識は苦しみに支配され、徐々に自我が細くなってくる。苦しい、痛い、助けて、どうして俺が、こんなことに。
 残された力を振り絞って暴れようとするも、体に全然指令が届かない。俺に跨(また)がった人間の顔が霞み、歪み、明滅する。そうだ、こいつが俺を殺そうとしている男だ。苦しい、助けて。意識がぼんやりと薄まってくる。ああ、目の前の人間の顔を俺は知っている。苦しい。痛い。助けて。苦しい。目は血走り、口は歪んで歯が剥き出しになり、唇から涎が垂れている、その顔をずっと前から知っていた。痛い苦しい、助けて。見知ったはずの顔。苦しいいたい助けて。でも違う。たすけてくるしいいたいたすけて。これじゃまるで――。
 これじゃまるで、俺じゃないみたいだ。

* * * *

「あの容疑者、やっと自白しましたね。これで連続六日。思いの外(ほか)しぶとかったですね」
 拘置所の廊下を歩く女性が、隣を歩く壮年の男性に話しかける。女性はラボの技術者(テクニシャン)であり、理知的な瞳をした男性は、女性が勤める私立大学の教授だった。
「そうだな。これで私の研究の有効性がひとつ、実証されたことになる」
 教授は女性に目を向け、鷹揚(おうよう)にほほえむ。
 彼の研究テーマは脳科学で、特に記憶に関わるものだ。数ヶ月前、教授はある技術を実用化していた。それは、亡くなったヒトの脳から記憶をデータとして取り出すというものだ。
 自動車に搭載されるドライブレコーダーのように。
 飛行機に積まれるブラックボックスのように。
 しかも、取り出せる記憶は視覚情報(映像)や聴覚情報(音声)にとどまらない。教授の技術を用いれば、痛覚や触覚などの五感もそのままそっくり取り出すことができる。しかも、その記憶は互換性があり、他人にその記憶を追体験させることもできるのだ。ただし、現時点の技術では亡くなる直前の約三分間に限られてはいたが。
 教授はそれを犯罪捜査に用いようと考えている。今のところ、亡くなった被害者からのみ記憶を取り出せるので、対象は必然的に殺人事件となる。被害者の脳から抽出した最期の三分間の記憶データを解析し、犯人の特定に利用するのだ。
 しかしながら、それは新しい技術であるゆえに、そのままのデータでは決定的な証拠とは認められない。そのため、警察との直接交渉の末、このほど容疑者に被害者の最期の記憶を体験させる運びとなった。自分自身に殺されるという強烈な体験をさせれば、自白が取れるだろうという予想がなされたのである。
 それは実験でもあった。一日一回の追体験を教授の指導の元実行したところ、容疑者は六日目で震えながら犯行を自供した。殺人者の顔をした自身に殺され続けた容疑者の男は、数日目でひどく怯え、小さな物音にもびくびくと反応するようになった。教授は男の様子をじっくり観察し、些細なことでも熱心にメモに書き付けた。
「この技術が犯罪の証拠として使われるようになれば、迅速な犯人逮捕が可能になりますね。早く導入されるよう、私も細かな手続きを頑張ります」
 意気込む女性に対し、上司はふと遠くを見つめる目になる。
「残念ながら、今すぐにというわけにはいかないだろうな。DNA鑑定だって、確実な証拠として認められるには長い時間がかかった。新しい科学技術が広く認知されるには、時間も労力も必要だ。この技術も、もっともっと実績を重ねなくてはならないだろう。そのためなら私も努力は惜しまない」
「教授は本当にこの国のことを考えておられるのですね」
 女性が尊敬と憧憬(しょうけい)とが入り混ざった目を教授に向ける。
「ああ、そうだよ。そのために長年研究を続けてきたのだから」
 男は視線を前に戻す。そして自らにしか聞こえないくらいの声量で、ぽつりと呟く。
「その過程で、犯人の悲痛な表情と叫び声の収穫がどれだけあるか、楽しみだよ」
「え? 何か仰いました?」
「いやいや、何でもないよ」
 穏やかに微笑する教授の顔に一瞬だけ残忍な色が浮かんだが、それもすぐに消えた。

――最期の記憶を取り出して
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