どうかしてる、と思いながら、僕はどうしても試行せずにはいられなかった。僕はサイエンティストとしては、少しずれた方向に好奇心が強いようだった。
 極小知性(マイクロインテリ)のプログラムについては浅い知識しか持っていなかったけれども、十日ばかり勉強すると大抵のことは理解できた。自分のインテリと連動したタブレットから、そのコード領域にアクセスし、その配列を少しだけ弄る。この時点でアラートが鳴るようなら即座にやめるつもりでいた。しかしそれは起こらなかった。
 僕のアイディアはこうだ。
 睡眠遺伝子のカスケードの下方、実際の睡眠にはほとんど作用しないタンパク質をコードしている遺伝子がある。その遺伝子は睡眠時には不活性化する。そこで、インテリの塩基配列に手を加え、該当の遺伝子が発現しないようにする。すると、体は眠っていないのに、バイタル的には睡眠状態にあると判断される、そう僕は考えたのだ。少なくとも、何パーセントかの可能性はあると見積もった。
 僕はなるだけ心を落ち着かせて作業をおこなった。タブレットの別のページを開き、睡眠遺伝子の全発現量をリアルタイムでモニターしている画面を見る。僕が弄ったタンパク発現量だけがすうっと降下していく。
 ――どうだ。
 警告は来ない。成功した、のだろうか。
 僕はインテリの五感情報ページを呼び出し、当たり障りのない発言をしてみることにした。

「あー……えっと、おなか空いたな」

 タブレットを見守る。
 二秒、三秒。記録されない。完全に睡眠状態にあると判断されているようだ。
 僕はふーっと息をついて、自室のベッドに倒れこんだ。思った以上に緊張していた。自分のしでかしたことが信じられなかった。無意識に握りしめていた拳を開くと、指に痛みが走るほどだった。
 こうして僕は、何者にも邪魔されない自由なひとときを手に入れた。


 自由だからといって、僕は犯罪に手を染めたりはしなかった。
 ただ、好きな本を読んだり、他人が聞いたら眉をひそめるような独り言を言ったり、馬鹿馬鹿しい妄想をはたらかせたりした。そうしているうちに、しっかりと畳んでいた心の翼が弛緩して、どこまでも広がっていくような気になった。
 それは不思議な感覚だった。
 今まで、インテリに監視されているからといって、なにか抑圧的な気分になったり、不平不満を抱いたりすることはなかった。インテリという目が常に己に向けられていること、それが当たり前だったからだ。
 ところが、いざその網から抜け出てみると、インテリの手が届かない場所というのは、輝かしい光にあふれていた。そこには芳しい香りと、あたたかな手触りに満ちていた。官能的ですらあった。こんな開放的な心持ちを知らずに、ほとんどの人間が一生を過ごすのだと思うと勿体なく思えた。
 僕は初めて、インテリの存在に疑問を抱いた。


 二回目のアップデートの日まで、何事も起こらなかった。
 そう、表面上は。
 五年前と同じように、健康庁から送られてきたアップデートソフトウェアをインストールする。自分で言うのもなんだが、操作の手つきも手慣れたものだ。
 前回同様、無限かと錯覚する数の"良好"の文字が滝のように流れていく。そろそろ更新完了かな、と思ったとき、いきなりタブレットの画面が暗転した。うわ、こんな時に故障したのか、と焦ると、今度はぱっとただ真っ白いページが表示され、

 The update failed.アップデートに失敗しました

 という黒々とした簡素な文字が無慈悲に浮き出た。
 そのときの僕の心情を、どう表現したらいいか分からない。混乱、動揺、不安、絶望、恐怖、そういった暗澹(あんたん)たる感情が津波のように到来し、思考を飲み込んだ。寒気に襲われ、全身ががたがたと震えはじめる。
 しばらく呆然としていると、外から自動運転車が近づいてくる音がして、家のそばに停まった。と思うと、階下からどやどやと乱暴な足音が上ってきて、黒づくめの人々が部屋になだれ込んできた。全員、体にぴっちりと張りつくような、見たことのない服を着込んでいる。ヘルメットが顔を覆っているせいで、誰の表情も読めない。

「あなたたち、何なんですか! やめてください!」

 黒い人たちの後ろから、母が金切り声を上げている。

「柊野学(ひらぎのがく)。両手を挙げなさい。あなたのマイクロインテリのアップデートは失敗した。よって、反社会因子としてあなたを連行する」

 僕にごてごてとした銃をつきつけながら、そのうちの一人が淡々と言い放った。
 僕は大人しく両手を挙げた。インテリには知られていたのだ。騙しおおせたなんて、ただの慢心だったのだ。言い訳することなどできはしない。
 もうこの家に帰ってくることは叶わないだろう、家族には二度と会えないだろう、そう考えたらいつの間にか頬を涙が伝っていた。
 健康庁から来たのであろう男が、僕の背中を掌で押す。

「母さん……」

 最後に母の顔をうかがうと、そこには憎悪を露(あらわ)にして僕を睨みつける彼女がいた。そんな表情はついぞ見たことがなかった。もうお前はこの家の人間じゃない、恥さらし、面汚し、瞳がそう語っていた。
 僕は無性に悲しくなって、顔を逸らした。


 目隠しをさせられた僕は、車に乗せられて、どこかへと連れていかれた。これからどんな手酷い扱いをされるのか、まったく想像が及ばなかった。
 車から降ろされ、長い時間歩かされた。三十分だったのか二時間だったのか、気が動転していてぜんぜん見当もつかなかったけれど、それは永遠に続くようにも思えた。
 目隠しを外されたとき、僕は見知らぬ室内に立っていた。だだっ広く、真っ白く、清潔な、かすかに薬品臭のする、病院によく似た雰囲気。ただし、ベッドと椅子はそこにはなかった。
 僕を連行してきた人たちが部屋の壁面にタッチし、指紋認証によってできたドアホールから出ていく。僕はがらんどうの部屋に取り残された。何もかも白すぎて遠近間が掴めず、ふらふらしそうだ。
 これから自分はどうなるのだろう。カウンセリングや投薬によって、社会復帰を目指すのか。それとも、手術で?
 いや、最も可能性がある道から僕は目を背けていた――社会落伍者は社会には必要ない。だから、ここで消されるのだろう。その命ごと。

「柊野学。こちらを振り返りなさい」

 澄んだ声が響いた。後ろから聞こえた気がするので、声にしたがって、振り向いた。
 息を飲む。手つかずの真白い雪原を思わせる、とても美しい女性がそこにいた。髪も肌も抜けるように白く、纏った服もとことん白で、一組の眸(ひとみ)だけが鮮やかなエメラルドグリーンだった。その足元が透けていてるのが分かり、どこかから投射されているのだと理解した。
 そして彼女はおそらく人間ではない――人工知能(AI)の代替実体(オルタナ)だ。

「ようこそ、落伍者(ストラグラー)。あなたがしたことのすべては把握しています」

 風が吹くような声だった。涼とした、清潔な風。そのゼロと一から出来た双眸で、彼女は僕をじっと見つめていた。

「あなたはインテリのコード領域にハッキングし、遺伝情報を書き換えた。その行為はサーバメモリには記録されていませんが、この私、日本国を分割統治するAI――識別番号三一八は監視していました。あなたの処遇は既に決定しています」

 僕は項垂(うなだ)れた。まるで囚人のように。いや、ようにでなく、僕は実際に囚人なのだ。それも、ただ死を待つだけの死刑囚。

「反社会因子を野放しにしておくわけにはいきません。あなたには――」 

 ――死んでもらいます。
 そう続いた脳内での反響を、

「この施設で、次世代の社会構造の構成作業に取り組んで頂きます」

 そう、涼やかな声が打ち消した。
 唖然として彼女の顔を見る。すると、無機質で無表情だった彼女の顔に、淡い笑みが浮かんだ。僕は戸惑って、言うべき台詞を探す。

「次世代の社会構造……? どういうことですか」
「あなたはあなたを支配するインテリ、ひいては社会構造そのものに歯向かいました。そして、この世界のあり方に疑問を抱いた。私たちは、その高い壁を乗り越えて、こちら側に来る人間を待っているのです」
「待っている……」
「世界は常に流動しています。万物は流転する、というヘラクレイトスの言葉を、あなたは知っているでしょう。無変化というものは自然界にはありません。同様に、社会構造にも変化が必要なのです。社会変化を起こすのは、いつの時代も社会からはみ出した不適応者でした。私の目的は、そのような人を集め、ここで次なる社会構造を構築してもらうことなのです」
「つまり、僕に、新しい世界の秩序を作れと、そう言うんですか……」
「その通りです」

 ようやく話が飲み込めてきた僕が尋ねると、AIはにっこりとほほえんだ。

「人体も、どこかが壊れる前に先だってその部分を壊し、新しい分子と取り換えているでしょう。それと同じです。あなたはそれができる人間なのです、柊野学」

 極小知性マイクロインテリに依らない、次の人間社会を作れ。
 目の前のAIはそう言っているのだ。
 僕は彼女の言葉に圧倒されていた。新しい世界の構築。なんという大それた響きだろう。
 科学者としての僕の好奇心に火が着いた。青ざめてうちひしがれていた気持ちが、奮い立つのが自分で分かった。
 やってやろう、そう思った。

「了解して頂けますね」

 確認する彼女に、大きく頷いて答える。

「もちろん」
「あなたの他にも仲間がたくさんいますし、私もお手伝いいたします。よろしくお願いしますね、柊野学」
「ええと……学でいいです。それとあなたのことは、なんと呼べば……」

 AIは小首を傾げる。ひどく人間くさい仕草に、思わず笑ってしまいそうになった。

「私ですか? そんなことを言う人はあなたが初めてなので……コード三一八という番号しか、私は持ち合わせていません」
「それじゃあ、味気ないですよ。……コードから取って、ミイヤ、と呼んでもいいですか」
「いい名前です。……名前を呼ばれるのは、嬉しいことですね。ともに頑張りましょう、学」

 そう言いながら手を差し出すミイヤへ、僕も手を伸ばす。すり抜けるかと思った手は、意外にもしっかりと彼女の手を握った。
 体温が感じられる、存外に暖かい手だった。

――アップデートに失敗しました
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