その小娘は、俺をジーヴと呼ぶ。


 丸一年ほどともに旅をしてきた人間の小娘は、約束の時間が過ぎても宿に現れなかった。
 一階の食堂で果実酒をちびちび飲みながら、竜を待たせるなど相変わらず図太い奴だと考える。集合時間を決めたのは一体どちらだと思っているのか。小言でも言いたい気分だが、その当の本人がいないのではどうしようもない。
 待ち人は一向に来る気配がなく、代わりに胸の内に暗雲が渦巻いている。竜の勘というやつだ。ここでこうして無為なひとときを過ごしていても仕方ない。やれやれと一息つき、グラスをぐいと傾ける。カウンターの椅子から立ち上がった。

「勘定」

 言いつつ金貨一枚を机に滑らせれば、それを見たマスターがぎょっとした表情になる。上質とはいえない果実酒一杯に支払うには、気でも狂ったのかと疑われて当然の金額だ。分かっているが、竜の俺にとってはどうでもよい。

「お客さん、釣りは……」
「要らん。お前の懐にでも入れておけ」

 ひらひらと手を振り言い捨てて、夜の帳が降りきった街へ歩み出る。ひんやりした夜気が顔を撫でた。通りは、どことなくざわざわと落ち着かない雰囲気に包まれている。宿に着く前の心地好い喧騒とは、微妙に質が異なるようだ。街の匂いが、風の動きが、人々のさざめきの声色が、漂う空気の醸(かも)しだす色合いが、それを俺に告げる。
 そういえば、イゼルヌ教団の騎士の姿がない。
 やはり何かあったな、と小さくぼやく。
 俺は道端で客引きをしている、酒場の店員に声をかける。

「騒動でもあったのか。聖騎士が見えないようだが?」
「こりゃあ竜の旦那。つい先刻ですがね、あっちの通りで騎士団にとっちめられた人間がいたらしいですぜ」
「それは女か」
「へえ、年若い娘だって話でさ。何をしでかしたんだかね……」
「ふむ」

 思わず嘆息が出る。十中八九、俺の契約相手の小娘だろう。木乃伊取りが木乃伊になってどうするのか。仇(かたき)が街にうろうろしているところで、危険な綱渡りをするのはまずいと言ったのに。今となっては詮なきことだが。

「騎士たちの行き先はあの城か?」
「さあ、見ちゃいやせんが、多分あそこじゃないですかい」
「そうか。話を聞かせてくれた礼にこれをやろう。俺のことは誰にも言うなよ」

 店員に金貨を握らせる。その輝きに目をぱちくりさせた後、男はその場で卒倒した。
 俺は人混みに混じりながら、その昔領主の持ち物だったという城に視線を向ける。竜は夜目が利かないから、城の輪郭もその足元の丘の形さえはっきり見えない。
 歩きながら思索をくゆらす。騎士たちは小娘の兄の行方を追っていた。小娘も兄をまた捜していることが、どういう形でかは不明だが、騎士団に知れたのだろう。そして捕らえられた。城には牢だってあるはずだ。城に着いたら、小娘はそこへ投獄されるのではないか。
 だからといって、特にどうとも感じない。
 おそらく人間ならば、意を決して助けに行くのだろうとは思う。しかし、竜は人間を助けない。小娘にも言ってある。共に旅をしてきた相手が仇の手に落ちたからといって、義理立てする必要もなかろう。あの小娘は仲間や相棒などではなく、ただの非常食なのだ。
 そう、この俺の、非常食だ。
 俺は踵(きびす)を返す。目的地を元の宿に据える。大きく欠伸をし、肩をぐるぐると回し、ごきごきと首を鳴らす。
 今夜はたっぷりと眠らねばなるまい。
 夜が明けたら、思う存分大暴れできるように。
 
* * * *


 目が覚めると、石造りの牢獄に放り込まれていた。
 あたしはじとっとした石の床に倒れ伏していて、黴の臭いが鼻を突く。幸い体は拘束されてはおらず、節々の痛みに呻きながらも、上体を起こすことができた。三方は石壁で、目の前には頑丈そうな金属の柵がある。冷気にあてられて、あたしは全身を震わせた。
 通路部分の壁には明かり取りの窓があるのか、そこから射し込む光が、不衛生な床の上に明るい長方形を投げかけている。もう夜は明けたらしい。番をしている騎士はいないようで、耳を澄ましても静寂だけが反ってくる。
 昨夜のことを思い返す。ポカをしてイゼルヌ教団の騎士たちに気絶させられ、気がつくとゆっさゆっさと揺れるものに乗せられどこかへ運ばれていた。袋を被せられていたので何も見えなかったが、きっと乗り物は馬で、行き先は領主の城だろう。だからここは城の内部で、聖騎士の根城ということになる。道中何度か抜け出そうと暴れてみたものの、その度に押さえつけられ体力を消耗したあたしは、そのまま眠ってしまったのだった。
 隻腕で体をさする。毒槍もナイフも取り上げられていた。羊肉屋での、ジーヴの忠告が耳に甦る。
 "奴らがいる状況で、聞き込みをするのはまずいのではないか?"
 本当にそうだ、とあの時の浅はかな自分に言い聞かせてやりたい。武器となるものを奪われた今、あたしは荒野に丸裸で放り出されているようなものだ。片腕で柵を揺らしてみるが、当然びくともしない。
 なんて無力。なんて愚行。
 ジーヴがいなければ、あたしはこんなに何もできない。彼の言う通りに慎重になっていれば、こんな事態は招かなかった。きっと、もともと持ち合わせの少ない彼の愛想も尽きただろう。それに旅を始める前に言われたではないか。"竜は人助けはしない"と。ジーヴは助けになんて来ない。
 これからどうなるんだろう。尋問。拷問。凄惨な場面ばかり頭に浮かぶ。死ぬ前に、一度だけでいい、兄に会いたい。そう思った。
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