未知が僕を呼んでいる。


 丘の上に立ち、窪地形に広がる若草色の平原と、鏡そっくりに空と雲を映す湖、そして世界唯一の大陸に黒々とそびえる、世界最高峰の巨大な山体を望む。
 若葉の匂いを含んだ爽やかなそよ風が、僕の髪を揺すり、鼻腔をくすぐり、王立科学協会アカデミー会員用の白いマントをはためかせて去っていく。首をぐるりと回さないと見渡せない広い空のあちこちに、黒い影が行き交う。その影は距離の遠近であちらでは胡麻粒のように、またこちらでは細長い凧のように見えるが、そのいずれもが、翼を広げた一頭一頭の竜である。
 ちょうど僕の方へ飛んでくる一頭に向かって、思いきり手を振って叫ぶ。

「すみませーん! こんにちはー!」

 声が届いたかどうか分からないけれど、その竜はこちらに気がついたようだ。一直線に、両翼を力強く羽ばたかせ、ぐんぐんと近づいてくる。黒い塊だったものは、体の形を明瞭に現し、体表の棘やごつごつした節が視認できるようになる。やがて羽ばたきが起こす風が僕の顔をなぶり、耐えきれず腕で目を覆う。
 一瞬強烈なつむじ風が吹き、やむ。目を開くと、そこには黒髪と碧眼を持ち、金刺繍のされた黒衣を身につけた、堂々たる居姿の美丈夫が立っていた。
 夜の黒と昼の青とを身に宿した、空の王。
 僕は彼を知っている。調査のために何度も言葉を交わしたから。この一帯に住んでいる、黒竜の一族の族長だ。
 彼は僕をじろじろ見ると、腕を組んで鼻をふんと鳴らす。

「なんだ、またお前か。物好きな奴め。今度は何が聞きたいんだ」
「いやー、話が早くて助かりますよお」

 僕は頭の後ろを掻き掻き、竜の青年に笑いかける。竜は仏頂面を崩さないが、別に怒っているわけではなく、これが彼の普通であるらしい。

「ええとですね、前回と同様に南西方向の海の様子について聞きたくて――」

 聞き取りを始めようとすると、竜は尖った爪が生えた指を僕の目の前で広げ、制止の合図をする。

「待て。ならば、こんなところで立ち話もなんだろう。向こうの森の倒木にでも腰かけて話そう」

 竜は巨躯を半ば窪地へ向け、湖のほとりに広がるもこもこした木々の塊を顎で示す。ずいぶんと遠い。僕の足だと半日のそのまた半分くらいはかかってしまいそうだ。

「あのう、あそこまで行くにはかなり時間がかかると思うんですが……」
「ふん、人間とは軟弱なものだな。心配するな。俺が運んでやる」
「え! いいんですか」

 僕はわくわくして目を見開いた。無意識に拳を握りしめる。もしかして竜形の背中に乗せてくれるのだろうか。竜にまたがって空を翔け、高みから遥か下方を眺める。それは、僕の密やかな夢だ。
 青年は軽くうなずき、またも一陣のつむじ風を纏い、雄々しい竜の巨体へ変じる。黒竜の長は平原全体に轟きわたるほどの咆哮をあげ、翼を上下に軽く動かした。
 びりびりとした空気の震えを全身に浴びながら、自分の家の一室ほどの広さもある、竜の背中へ近づこうと一歩を踏み出す。
 しかし、僕はそこにはたどり着けなかった。
 竜が鮮やかな青い目で僕をぎろりと睨み、その鋭い爪の生えた前肢で、物でも持つみたいにむんずと僕を握り、掴みあげたからだ。
 黒竜の巨躯はそのままふわりと浮かび上がる。今まで自分がいた野原が、あれよあれよと下方向へ急速に遠ざかる。
 竜の手のなかは苦しくはなく、ほんのり温かい。ほどよく調節された握り心地であった。
 
「やっぱり、こうなりますよね……」

 僕の夢の実現はこうして延期された。とほほ、と思いながら、中空にてがっくり項垂れる。


 僕は竜の研究者であり、海洋学者でもある。
 そのふたつに何の関連があるのと妹のアイシャは言うけれど、なかなかどうして両者は深いところで繋がっている。
 竜の話を書き取った紙束を抱え、えっちらおっちら帰宅する。もう陽は山の稜線の下へ隠れつつある。自宅の扉を開けるとすぐ、腹の虫の目覚めを誘う香ばしい匂いが鼻をついた。台所に妹が立って、夕食の支度をしているところだった。

「お帰り、エイミール兄さん」

 包丁を動かす手を休め、アイシャが僕へほほえみかける。ただいまアイシャ、と返しながら、妹の方へ歩み寄る。けれど手元のまな板が何かの羽毛だらけで、包丁もべったり血に濡れていたため、僕はそっと距離をとった。昔から血の色と臭いが駄目で、それだけでよく貧血を起こすのだ。妹の前でばったり倒れるとか、そんな醜態を晒したくはない。
 早くに両親を亡くした僕ら兄妹にとって、相手は互いに一人きりの家族だった。自分の研究にばかり精を出してきた僕は、家事においてはまったくもって戦力にならず、家のことはアイシャがほとんどしてくれていた。アイシャはきっと良いお嫁さんになると思う。同じアカデミーの学者連中からは、お前の世話ばかりしている妹ちゃんが可哀想だの、お前も研究にばかりかまけてないで嫁探しをしろだの、散々な言われようだが、彼らの意見には僕も全面的に同意である。
 ではアイシャはずっと家にいるのかというとそうでもなくて、街から少し離れた森で鳥や獣を狩ったり、川や湖で魚を釣ったりしている。獲物は主菜として食卓にのぼる。彼女が林間を駆け回る様子は、しなやかな鹿の身のこなしを連想するし、彼女の弓の腕前は超がつくほど一流だ。今どきそんな芸当ができる人間は皆無に等しい。
 父や母や兄の僕は自然を研究することを選んだが、彼女だけは自然とともに生き、その恵みの一部を分けてもらうことを選んだ。僕はそんな妹を誇らしいと思う。兄妹でどうしてここまで違うのかとも思う。
 僕が持たなかった分の運動神経を、彼女が全て持って生まれてきたのではないか。非科学的かもしれないけれど、僕はそう考えている。では全ての知力を僕が持って生まれたのかと問われるとそういうわけでもない。僕はそれほど賢くもないし、アイシャは科学の方面に関心がなかっただけで、実のところ相当に利発な子だ。妹馬鹿だと詰(なじ)られようが僕は意見を変えない。
 今日僕は竜の背中に乗り損ねたが、妹が竜の背に乗って大空を飛び回る様は、容易に想像ができる。もしかしたらそんな日が来るかもしれない。漠然となんとなくぼんやりと、そんな気がした。

「ご飯の準備、何か手伝おうか」
「ううん、大丈夫。研究の成果をまとめたいんでしょ、顔に書いてある」

 助力の申し出はありがたくも断られた。
 いつもごめんね、と謝ると、アイシャは意味が分からんとばかりに小首を傾げる。

「あたしはあたしがしたいことをしてるだけ。兄さんも好きなことをしたらいいよ」

 そう言って笑う。繕ったところは微塵もなかった。なんていい子なんだろうと感激しながら、今日の収穫をまとめあげるため、ちょっと肩身の狭い気分にもなりつつ、僕は自分の部屋へ引っ込んだ。
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