都会から離れた温泉地の旅館。その一室で一人きり、ゆったりのんびり休日を過ごす。
 ――はずだったのだが。

「んっ、ふう……。はあ、いい……」

 俺は旅館の従業員と、今まさに肌を重ねている。
 あらゆる行為の中で最もふしだらな淫行――初対面の相手との一夜限りのセックス――に耽っていることが、自分でも信じられない。
 目の前の着物はほとんどはだけ、帯もほどけかかっていて、その中途半端に乱れた様がいっそう劣情を煽る。正常位で腰を突き入れるたび、下にある艶かしい体が身悶えした。和服のエロさはすぐにでも規制すべきではないか。そんなとりとめのない戯れ言が脳裏をかすめる。
 繋がった相手は掌で口を覆ってはいるものの、くぐもった嬌声が漏れ出していた。薄暗がりの中で、こちらを誘うように滑らかな肌が白々と浮き上がっている。激しいまぐわいでなくても、ねっとりした前後運動をゆさ、ゆさ、と繰り返すだけで十二分に気持ちよかった。射精感が高まっていく時間をできるだけ長引かせたくなるくらい、相手の中はとろけるように熱く心地好い。吐息が耳朶を打ち、互いの体温が混じり合い、理性が溶け落ちていく。

「ふふ。お客さんの……すごく、気持ちいいです」
「……俺も、いいですよ」
「良かった……わたしでいっぱい気持ちよくなって、存分に出していって下さいね?」

 淑やかそうな顔をしていた従業員は、うっそりと笑いながら俺を見上げてきている。その視線の、なんと扇情的なことか。
 初めて来る場所で、初めて会う相手と、行きつくところまで行っている。シチュエーションのすべてが背徳感を燃え上がらせる。
 行きずりの恋。ワンナイトラブ。
 俺には一生縁がないと思っていた概念が、頭蓋の中をぐるぐると駆け巡っている。頭がどうにかなってしまいそうだった。


 年末年始の休暇を利用して訪れた、雪深い東北の温泉地。そこは人里離れた秘境と言える場所にあり、客室も一棟一棟独立していて、まさに隠れ家といった趣を持っていた。音もなく降り積もるパウダースノーが物音を吸収してしまうのか、辺りはしんとした静けさに包まれている。雪見風呂など初めての経験だったが、頭は冷え、体が芯からぽかぽかと温まる感覚は極上と言ってよく、つい長風呂になってしまった。
 旅館の仲居さんがいそいそとビール瓶を運んできたのは、母屋で夕食の懐石料理を食べ終え、客室に戻ってきてからのことだった。
 離れは和風の設(しつら)えだが、床暖房がしっかり効いているのか浴衣と羽織だけでも快適だ。漆塗りのテーブルの角の向こうで膝をつく従業員を見て、俺は新鮮な思いにとらわれる。
 ――仲居さんて、男性もいるんだな。
 そう思うこと自体、ステレオタイプなものの見方かもしれない。相手は男性にしては華奢で、しっとりした黒髪が目を惹く美人だった。和服が抜群に似合っている。
 自分よりいくつか年下だろうか、綺麗な顔の青年である。そんな感想をぼんやり抱きつつ、座布団に腰を落ちつけた俺は彼に向かってコップを差し出す。あまり個人で旅館に泊まったことがないので分からないが、こういったコンパニオン的なサービスはよくあるものなのだろうか。

「お客さんはおひとりでご旅行ですか?」
「え……ええ」不意に話しかけられて反応が遅れる。声も印象通り、なめらかで聞き心地が良かった。「そうなんです。たまには温泉に浸かってのんびり過ごそうかなと」
「お客さんの年頃だと働き盛りでしょうからねえ。ゆっくり疲れを取っていって下さいね」
「ありがとうございます」

 会話をしながら袂を押さえ、ビールを注ぐ所作は妙に色っぽく、どぎまぎしてしまう。横顔の輪郭が絵に描いたように美しくて、ついつい目が釘付けになる。

「そういえば、お食事はいかがでしたか?」
「ああ……すごく美味かったです。特にすき焼きと茶碗蒸しが美味しくて、俺は好きでした」
「それは良かった。さ、どうぞ」

 仲居さんがにこりと目元を笑ませる。それは愛想笑いだろうが、ぱっと白い花弁が散るような華やかさがあった。
 俺は白と琥珀色が絶妙なバランスで注がれたグラスをぐいと呷る。きりりと冷えた苦味が火照った体の中を滑り落ちていく。

「お客さん、いけるクチですね。もう一杯いかがです」
「すみません、頂きます……」

 俺はまた、相手の顔をぼうっと見つめた。見とれた、と言った方が正しいかもしれない。切れ長の一重。それでいて瞬きごとに揺れる長い睫毛。彼の一挙手一投足ごとに、着物の袷からちらちらと覗く色白な首元。
 なんだか、変な気分だ。妙に胸騒ぎがする。心臓がどきどきと高鳴っているのは、果たしてアルコールのせいだろうか。
 仲居さんの目がふいとこちらを見て肩が跳ねる。彼は可笑しそうにくすりと笑みをこぼした。

「お客さん、どうかなさったんですか? そんな風にわたしを熱心に見て」
「え、いや、そんなつもりは……すみません。不愉快な思いをさせてしまって」

 勘づかれていた。気まずい心持ちのまま、しどろもどろに弁解する。
 相手はふるふると頭(かぶり)を振った。彼の口元には依然柔らかなほほえみがある。その微笑がどこか妖しいものへと変質していくように見えるのは、俺の思いこみだろうか。

「いえいえ、不愉快だなんて。そういう意味ではありません。……むしろ、お客さんもわたしに興味があるなら嬉しいなと思いまして」
「お客さん、も……?」

 抑えた声がざらりと心の表面を撫でる。そのニュアンスが間違っているのでなければ――彼も俺に興味がある、ということになりはしないか。
 ビール瓶を机上に置いて、仲居さんがこちらににじり寄ってくる。じり、じり、と。緩慢に。
 追い詰められている、と感じた。物理的でなく、精神的に。それも、取り返しのつかない地点まで。
 相手がついに言う。

「わたし、お客さんみたいな人、すごくタイプです」
「えっ、と……?」情けないことに、俺は混乱することしかできない。
「行きずりの恋とか、ワンナイトラブとか。お客さん、興味あります?」

 放られた言葉が脳に浸透して、その中をめちゃくちゃに跳ね回る。彼の言わんとしていること、暗に誘おうとしていることを、既に自分は正確に理解している。
 あぐらをかいた脚の素肌に、仲居さんの温かい掌が触れる。 その感触がつうとのぼってきて、指先が裾から浴衣の中に侵入してきた。

「あ……の」
「お返事は不要みたいですね。こちらは元気いっぱい、やる気に満ちているようですし」
「……ッ」

 着物の布地を下着ごと持ち上げている存在を揶揄され、かあっと頬が熱くなった。

「待って下さい、俺は、その」
「どうぞご安心を。今夜のことは誰にも言いませんし、これからわたしたちのあいだに起こることは、さしずめ夢幻(ゆめまぼろし)のようなものです。つまり、二人だけの秘密ということ」
 相手は歌うように言い募ってから、ほとんど俺の耳に唇を触れさせて、吐息混じりに囁く。

「お客さんのお好きなように、わたしを抱いてもいいんですよ?」

 と。


 隣の寝室へ向かう仲居さんの後ろを、俺は茫漠とした心持ちで付き従った。ここで誘いに応じたら引き返せなくなる。そう分かっているのに、体は理性より本能に身を委ねようとしている。
 板戸を二十cmほど開いたところで、先導する青年ははたと何かに気づいたようだった。

「ああ……少々お待ち下さいね」

 そう言い置いて戸の向こうへ消え、俺は閉じた木戸のこちら側に取り残される。得体の知れない不安が急激に膨れ上がった。もしかしたら、彼はこのまま煙みたいに消えてしまうのではないか。そんな不条理な不安に襲われたのだ。
「どうぞ、こちらへ」と声がかかったのは、それから数分後のことであっただろう。それでも、俺には数十分か、数時間にも思われた。待てをされてお預けを食らっていた犬のように、声を聞いて反射的に扉を開いてしまったのがみっともなく、恥ずかしかった。
 寝室では、床の間に置かれたモダンな行灯(あんどん)だけが滲むような光を放っていた。後ろ手に板戸を閉じれば、心許ない照明と丸窓からの雪明かり以外の光源がなくなり、いっそう雰囲気が淫靡なものになる。並べられた布団はぴっちりと一分の隙間なくくっついていて、何やら執念じみたものすら感じられた。仲居さんは先ほどまで布団を動かしていたのだろう、と想像できたが、俺とてそれを口にするほど野暮でもない。
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