「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。
 自分の雇い主のなめらかな発声を聞きながら、ミカは「はい」と返事をしつつ、内心はくそ食らえだと吐き捨てていた。


 アンドロイドが人間の補佐役をし、人間の仕事を助ける。そんなのはもう何十年も前の常識、過去の遺物だ。
 現代ではもはや、アンドロイドこそが社会の中心にいて、アンドロイドが社会を回している。経済を最適な形で活性化し、政治に叡智を注いて情勢を安定化させ、惑星環境の持続可能性を憂えて各国に資源を分配する。それらすべてがアンドロイドたちの発案だ。そうやって地球をはじめとする太陽系は、すべてが順調に発展していた。もはや人間が未熟な頭脳で解決すべき問題などほとんどない。人類は完全に、アンドロイドのメンテナンスや秘書などを担う、補佐的な存在となっていた。
 ミカ――フルネームはミカエル・アダムス――は、そんな社会に辟易としている数少ない地球人であった。アンドロイドの言葉に唯々諾々と従い、人間はただ環境に影響を与えない範囲で遊び呆けて一生を過ごせばいい。そんな生活を、それでいいと誰もが思いこまされている社会を、反吐が出そうなほど毛嫌いしていた。
 だというのに。
 ミカはいま、アンドロイドの雇い主のもとで助手として働いている。

「はあーっ。本当に嫌だ、この生活」

 合成肉を仕様したファーストフード店でハンバーガーを食べながら、ミカは深く深くため息をつく。テーブルを挟んだ反対側には、ミカと同じくアンドロイドの家で住み込みをしているショーンがいて、苦笑を浮かべていた。

「こんな優遇された生活を嫌がるなんて本当におかしな奴だよ、お前は。仕事なんてほとんどないだろう? 一日中アンドロイドのそばにいて、たまに話し相手になれば個人用ロケットが買えるくらい給料が貰えるんだ。何が不満なんだ?」

 ミカは無言でハンバーガーを頬張って咀嚼する。何が不満って、何もかもだ。ミカの家系は先祖代々ちょっとした農場を受け継いでいて、そこで牛や羊を飼いながら慎ましく生活を営んできた。家族のささやかだが豊かな生活は、アンドロイドが下した決定によってすべてが無に帰した。
 地球の土地と家畜を世界政府の所有とし、アンドロイドが包括的に管理するという決定。
 ミカのアンドロイド嫌いは幼少期から時間をかけて醸成されたものだ。だというのに、彼の高校までのライフログを参照したあるアンドロイドから、ぜひ私の助手になってほしいと要請があったのである。現代社会では、健康上の理由などのやむを得ない理由がない限り、アンドロイドからの要請を拒否することはできない。それはアンドロイドではなく、人間が決めたことだった。
 仕事の条件は住み込みが必須であったので、両親は不安そうだったが、莫大な給金を得られると知るとむしろ喜びに傾いたようだ。彼らに送り出されて渋々アンドロイドのもとへ馳せ参じ、慣れない環境で仕事を始めたものの、やはり反発の気持ちは消えていない。
 やりきれない生活を送る中で、ショーンはオルタナワールドのコミュニティを通して知り合った数少ない新しい友人だった。

「お前、また対ア規範を破ったんだろ? あと残り三回だっけ。気をつけろよ、五回破ったらとんでもないことになるらしいからな」
「……分かってるよ」

 心底心配してくれているショーンに反論する気も起きず、ミカは何百年もレシピが変わっていないらしいコーラをずずずと飲みながら頷くほかなかった。


 対ア規範――対アンドロイド規範というものがある。アンドロイドと接する際に遵守しなければならない規範だ。アンドロイドに雇われ助手となる者は、まずこの規範を頭に叩き込むことを教わる。ミカも嫌々ながら記憶はしていたが、既に二回も規範を犯していた。
 アンドロイドに不用意に触れてはいけない――触れるどころか、胸ぐらに掴みかかった。
 アンドロイドにも存在する人格を否定し、侮辱してはいけない――アンドロイドなんか人間の真似事をした紛い物だと言い放った。
 雇い主であるアンドロイドのイツァークは、二回とも不敵な笑みを浮かべながら、ミカに許されている残り回数を述べた。
 対ア規範を五回犯すことは禁忌とされている。五回違反した人間がどうなるのかはなぜか明らかにされていない。精肉工場に送られてミンチにされ家畜の餌にされるとか、アンドロイドの機体精度向上のために生きたまま解剖・研究される献体に回されるとか、恐ろしげな噂が真しやかに語られていた。
 ミカだって、別に違反を重ねて無駄死にしたいわけではない。ただ、抑えられないのだ。アンドロイドを前にしたときに、ふつふつと沸き上がってくる滾った感情を。
 休日にショーンと会話をしてガス抜きをしたのに、翌日雇い主と顔を合わせると、ミカの体の中にはもう黒々とした炎が燃え上がった。

「おはようございます。よく眠れましたか?」

 毎朝同じことを聞いてくるイツァークに、ミカは不承不承「はい」と答える。

「それは良かった」

 既に完璧に身だしなみを整えたイツァークは満足そうだ。
 ミカの雇い主であるイツァークは、確かに客観的に見れば魅力的な存在であることには違いない。男性型のアンドロイドで、外見は三十代半ば。均整の取れたプロポーションはモデルのようだが、いつも広大な家でひとり仕事をしているため、その優れた容姿を誰に見せるわけでもない。産毛も毛穴も一切ないつるつるの肌は、彼がアンドロイドであることを如実に物語る。鳶色の髪はいつも一分の隙なくセットされていて、銀色のスリーピースという嫌味な格好を好んでいるのだが、それが淡い褐色の肌色に抜群に似合うのだ。薄い灰色の瞳は時に純粋な子供のようにきらめいたり、時に老獪な政治家のように剣呑な光を宿したりする。ミカはまだイツァークと出会って一ヶ月も経っていないのに、彼が油断ならないアンドロイドじんぶつであることだけははっきりとわかる。

「今日もいつものように、よろしくお願いします。冷蔵庫の中身も自由に使って構いませんので」
「……分かりました」

 ミカは掃除ロボットが集めたごみを回収するためのろのろと歩みを進めた。
 難しい仕事はない。何に使っているのか分からないいくつもの部屋を綺麗にし(それだってほぼロボットがやってくれる)、庭の植物の具合を見て、イツァークの雑談相手になり、アンドロイド機体の自己メンテナンスのダブルチェックをする。それくらいだ。
 ミカが掃除を終えると、イツァークはコーヒーカップを手に持ち、立ったまま庭の様子をじっと見ていた。夜のあいだに小雨が降ったらしく、庭木や草花はしっとりと濡れ、太陽の光を柔らかく反射しきらきらと輝いている。

「コーヒー、冷めるんじゃないですか」

 それこそ冷めきった声で指摘すると、イツァークは振り向いてにやりと笑った。

「ああ、これはうっかりしていました。冷めたコーヒーほど不味いものはありませんからね。どうもありがとう」
「いえ、別に」

 アンドロイドに感謝されて決まり悪くなる。ミカはそそくさとその場を離れた。
 アンドロイドには味覚があるが、消化はしない。そういうわけで、住み込みの助手に三食の食事を用意する義務は特にない。ショーンなどは毎日、腹が減ったら適当な時間にデリバリーを頼んでいるのだそうだ。しかしながら、ミカは自分の食事は自分で作っていた。幼い頃から両親が忙しかったのもあって、料理はよくしていたからだ。
 朝食はいつもチーズとベーコンを乗せたトーストにカフェオレと決めている。しかし、昼食と夕食は毎日違うものを作りたかった。巨大な冷蔵庫の扉に備え付けられたタブレットで中身を確認しながら、レシピをいくつも頭に思い浮かべる。飼い殺されているようなこの生活で、調理だけがミカの楽しみだった。
 今日の昼食には、サーモンの香草焼きを作ることにした。裏ごししたポテトのポタージュも添えよう。キッチンを通りかかったイツァークが興味深げに調理の様子を見るのにも気づかず、ミカは手元の作業に没頭した。
 作りすぎた、とはっとしたのはすべての工程が終わってからだった。しばし途方に暮れるも、冷蔵庫に入れておけば保存は効くだろうと判断する。白い皿に香ばしいサーモンを並べ、鮮やかな緑のボウルにポタージュをよそうと、目にも鮮やかな昼食が出来上がった。

「美味しそうですね。私にも少し下さいませんか」

 艶のある声が間近で聞こえて、ミカはその場で飛びあがりそうになった。午前の業務を終えたらしいイツァークがミカの手元を覗きこんでいる。そんなことを請われたのは初めてだった。彼の目元は愉快そうに細められていた。

「別にいいですけど。本当に少しだけですよ。どうせ消化できないんだから」
「ええ、もちろん。今のは聞かなかったことにしておきます。午前中に火星の新しい資源に関する会議に参加して疲れましたので、いい息抜きになりそうです」

 イツァークがいたずらっぽく片目を瞑る。見目麗しい男に相応しい仕草を至近距離で浴び、ミカの頬が羞恥か何かの感情でかっと熱くなった。
 香草焼きもポタージュも文句なしに美味しくできた。ミカにはそれで十分だった。なのに、イツァークが「とても美味しいです」などとさも驚いたとばかりに余計なことを言ってきて、反応に困る。
 別に、作ったものに感想など要らなかった。昔は自分が生きるため、今は自分の楽しみのため、やっているに過ぎないのだから。

「このスパイスは出来合いのミックススパイスではありませんね? あなたが自分自身で配合を考えたものだ。そうでしょう?」

 けれど、イツァークが気づいてくれ、彼に褒められると嬉しくなる。嬉しいと思ってしまう。アンドロイドなんか、嫌いなのに。人間の猿真似をしているだけの、偽物なのに。

「そうですけど、それがなにか」
「いえ。ミカは料理上手だなと、感じただけですよ」

 イツァークは含みがありそうな笑みを浮かべて、ミカをじっと見つめる。彼は明らかに、己のことをミカが嫌っていると理解して、わざと神経を逆撫ですることを言っていた。イツァークが面白がっているのが、ミカには心底面白くない。

「あなたを見ていると、昔の私を思い出します。だから好ましい」
「アンドロイドに昔も今もあるんですか。そりゃ驚きですね」

 意味深な台詞を吐いたアンドロイドに、ミカは背を向ける。


「あなたを見ていると、昔の私を思い出す」

 それはイツァークが事ある毎にミカに言ってくる言葉だった。
 意味が分からないし、なんだか怖かった。イツァークが自分に、助手以上の何かを期待しているような気がして。
 アンドロイドの助手は社会的にも地位が高いし、合間に好きなこともできる。同じ仕事をしている人間のコミュニティでは、「穏やかで、満ち足りた生活だ」という意見がほとんどを占めていた。ミカも彼らと同じように、これがその穏やかで充足した生活だと自らに言い聞かせようと努力した。なのに、イツァークの洗練された身のこなしを見ていると、こんなにも苛つくのはなぜなのだろう。

「最近、体調が優れないようですね。風邪を引いたのなら休暇が必要です」

 ある日、ぼんやりしながらキッチンに立っていると、いつの間にか隣にいたイツァークに額を触られた。アンドロイドに触られたのは初めてだった。人間がアンドロイドに触れるのは基本的に禁止されているが、アンドロイドは危害を加える目的でないなら三原則には触れない。
 ミカの肩がびくりと跳ねる。こんなの、不意打ちだ。
 イツァークは「36.6度。ふむ、平熱ですね」とかなんとか思案げに呟いている。ミカの脳内がにわかに煮え滾った。このアンドロイドは心配するような顔をしているだけだ。どの部品をどう動かせば人間にどんな印象を与えられるか、最適化された計算を弾き出しているだけで、こいつらに感情なんてない。
 ミカの拒絶心が沸点を超えた。
 心を見透かすような、イツァークの粘着質の視線が気持ち悪かった。それでも、なぜか灰色の視線らに安心感を覚え、心惹かれてしまう。
 そうだ、と不意に理解した。苛々するのはイツァークにではない、ということに。嫌いなはずなのに、どうしても彼に惹かれるしまう自分に、無性に腹が立つのだ。
 ミカは中途半端に伸ばされていたイツァークの手を力任せに握った。彼の痛覚センサーが反応し、整った顔立ちが痛みに歪む。

「心配する振りなんかして、何が目的なんだ? 俺に触るな。あんた、気持ち悪いんだよ。アンドロイドは嫌いだしあんたのことはもっと嫌いだ。今すぐこの仕事をクビにしろ、でなきゃあんたをこの場でめちゃくちゃに破壊してやる」

 ミカは力をこめた指先に、イツァークの肌の下にある人工骨格の存在を感じた。その感触は生々しく、アンドロイドの肌は人間と同じように、温かかった。
 イツァークは腕を振り払うこともせず、眉をひそめてはあとため息をこぼす。

「おやおや……ミカ、理解していますか? 今の行動と発言だけで軽々と規範違反五回に達していますよ。撤回するなら今のうちです」
「撤回なんかするか。これ以上あんたなんかと一緒にいられない。あんたと一生ここで暮らすくらいなら、ミンチなり献体なりにされた方がましだ」

 あまりにヒートアップしているという自覚はあった。すぐさま撤回した方が利口だということも。脳裏に両親や友人の姿がちらつく。ここで自分の人生は終わるのかもしれない、という予感をミカはひりひりと感じた。

「ふう……あなたという人は」

 呆れたように、イツァークは小さく笑って。

「思った以上の逸材です。素晴らしい。私が見込んだとおりです」

 そう続けて優しく微笑するものだから、ミカは虚を突かれて絶句した。
 このアンドロイドはなんと言った? 逸材? 素晴らしい? 見込んだとおり? 規範違反を犯した自分を糾弾すべきなのに、こいつは何を言っているんだ?
 イツァークの灰色の目の奥が、妖しく赤い色に光っている。

「いま、世界政府に報告をしました。あなたは五回という高い壁を破ってこちら側に来たのです。おめでとうございます」
「は……? こちら側って、何を言って」
「あなたは私たちのようなアンドロイドになる資格を得たのですよ」

 今後こそ本当に、思考が働くのをやめた。アンドロイドに、なる? 誰が。資格って、一体どういうことだ。
 混乱の極みに突き落とされたミカを慈悲深い瞳で見つめながら、イツァークは滔々と説明する。

「違反を犯したのに、『チャンスはあと何回』だなんて言い方、おかしいと思いませんでしたか? 私たちアンドロイドはね、私たちに反抗できるような意志の強い人材を求めているんですよ。規範違反五回というのはいわばテストです。強靭な精神力をもって、何回もアンドロイドに歯向かえるかどうかの。歴史というものは常に、社会構造に反旗を翻した人間によって更新されてきました。あなたには私たちの仲間になる資格がある。脆弱な人類の体から脱却し、アンドロイドの機体を得る資格がね」

 ミカの全身から力が抜け、腰から崩れ落ちそうになるのを、イツァークは許さない。彼の逞しい腕が、涙を流すミカの肩を支えている。
 衝撃に啜り泣きながら、疑問を返す。

「じゃあ、あなたも以前、人間だったってこと……」
「だから、何度も言っているじゃないですか。あなたを見ていると昔の自分を思い出すと」

 アンドロイドの不敵な笑み。その表情は、なるほど確かに人間味にあふれすぎていて。

「大丈夫、怖くないですよ。麻酔を打たれて、次に気づいたときには新しい人生が始まっています。あなたの脳はアンドロイドの素体に移され、汎用人工知能と合体する。容姿は好きにカスタマイズできますし、寿命も半永久的な長さです。アンドロイドの目はとても解像度が高いし、人工知能と一体になった脳の演算能力は桁違いですから、何気ない景色から無尽蔵の情報量を引き出すことができます。私はいつも庭の様子からインスピレーションを得ています。こちらはとても美しい世界ですよ」

 信じがたい事実を、イツァークは嬉しそうに述べる。ミカは振り仰ぎ、彼の頬に指先で触れた。

「拒否する、ことは……」
「当然ながら、できません」

 アンドロイドの要請を拒否することは基本的に、不可能だ。
 玄関から、どやどやと何人もの人間が入ってくる足音が聞こえてくる。ミカは瞑目する。この先の己の運命を思いながら。
 やがて、首元にちくりとした痛みが走って、それきりミカの意識は闇に沈んでいった。



 仕事場にやってきた青年は挑発的な態度を崩さなかった。彼と顔を合わせたアンドロイドは、昔の出来事を思い出した。
 そして考える。彼は自分に似ている、と。

「僕はミカエルといいます。ミカと呼んでくれて構いません」
「よろしくお願いします……ミカエル」

 視線を合わせない青年を前に、かつて人間だったミカはにっこりと完璧な笑みを浮かべてみせた。
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