俺は未咲の手を乱暴に引っ張った。

「走れ!」
「え、え? 何なの?」
「いいから!」

 もどかしく俺は叫ぶ。半歩遅れて、未咲が着いてくる。木々を抜けるまで、無我夢中だった。そのあいだの記憶はなく、気づいたら実習所の前で膝に両手を置き、ぜえぜえと肩で息をしていた。
 必死の形相で疾走してきた俺を、みんなが目を丸くして見ているのが分かる。未咲はかなり混乱していた。

「ねえ、何なの! 話って……どうしていきなり走りだしたりしたのよ!」

 いまだ息を切らしながら、俺の頭の中ではぐるぐると様々な考えが回っている。動揺しすぎて、未咲の問いかけに答える余裕もない。
 あれは本当にあの山羊男だったのだろうか。あそこに、実際に立っていたのだろうか。繰り返し夢を見すぎて、起きていても夢が見えるようになってしまったのか。もしくは大学生が用意した、参加者を怖がらせるための仮装という可能性は? よく考えれば、俺が誘拐に遭ってから、8年近くが経っている。当時の誘拐犯と、同一と考えるには無理がある。もっと冷静になればよかった。焦りすぎだ。走って逃げることもなかった気がしてくる。
 そばに、女子大生がつつうっと寄ってきた。

「何かあったの? 龍くん」
「いや……何でもないです」

 そう返答するしかない。女子大生はそお?と小首を傾げると、また威勢よく右手を天へと掲げた。

「最後は私ですがあ、男性諸君! 誰かエスコートしてくれる人ー!」

 え、と無意識に声が漏れる。そうか、女子は男子よより一人多いのだ、と思い出し、焦る。もし、あれが本物なら。あそこに山羊男がいるのなら。行かせるわけにはいかない。けれど、"行っては駄目です"と言っても、全員に怪訝に思われるのがオチだろう。

「俺、行きます」

 自分でも驚くほどの勢いで、名乗りを上げていた。
 女子大生がにっこりと満足げに微笑むが、それを視認し、某かの感情を脳から引き出すだけの余力は俺にはない。
 彼女と並んで再度森へ踏み込む俺を、未咲は憮然として見送っていた。


「意外だなー、龍くん。こういうの、けっこう苦手そうなのに」
「……はあ……」

 俺はほとんど、女子大生の話を聞いていなかった。さっき、山羊頭の人間が立っていた場所が近づいてくる。それに伴い体が強ばる。心臓が激しく脈を打つ。懸命に目を凝らす。
 しかし。

「いないな……」

 現場には何者の影も形もなかった。呟くと、女子大生が説明してくれと言わんばかりに眉をひそめる。それを無視して、頼りない懐中電灯を頼りに、木々のあいだへ分け入った。危険だ、とか身のほど知らず、とはその時は思わなかった。
 衝立のように生えた木を抜けると、そこは森の中でも少し開けた場所になっていた。テニスコート半面ぶんほどだろうか。そこの地面は湿ってぬかるんでいて、たくさんの足跡でぐちゃぐちゃになっていた。
 そこに呆然と立ち竦む。
 やはり、何かがいたのだ。しかし、この足跡は何だろう。普通に歩き回ったにしては不自然だ。光で照らすと、足跡は足先に向かって深くなっており、一番深いところでは地面から数センチは沈みこんでいた。足先にかなり力がかかっているということは、走った跡なのだろう。注意深く観察すると、人間らしき靴跡のほか、小柄な獣の足跡めいたものも発見できた。

「うひゃあ……なんだこれ」

 遅れて着いてきた女子大生が驚愕の声をあげる。俺は立ち上がって、彼女の方を振り返った。

「何か、大学生の人たちで俺らを怖がらせる仕掛けをしていたとか、そういうのはないですか」
「いやあ、何もしてなかったけど。この森、夜になるとそれだけで充分怖いし。一応、昼のあいだに危険箇所がないか調べたけど、こんな足跡なかったと思うなあ」
「そうですか……」
「龍くんは何か知ってるの?」
「いや、何も分からないです」

 知っていたらむしろ教えてほしいくらいだ、とはさすがに言わなかった。
 その後、周りに用心しながら祠まで行き、また来た道を戻ったが、もう何事も起こりはしなかった。
 未咲が何か尋ねたそうに俺に視線を寄越していたが、その視線に応えるほどの心持ちには到底なれなかった。


 翌朝、どうしても昨晩の出来事が気にかかり、朝も明けきらぬうちに、森へと調べに出る。
 そして俺は、絶句することになった。

「嘘だろ……」

 あれだけ深く刻まれていた数えきれない数の足跡は、綺麗さっぱり、消えていた。まるで、最初からそこには何も存在していなかったように。地面は滑らかで、自然だった。
 狐につままれたような気持ちだ。しかしどうしようもない。不可解な思いでもやもやする脳をなだめて、なんとか帰りの車に乗った。始終未咲は俺をちらちらと見ていた。
 実習所の、公民館みたいな建物が遠ざかっていく。これからまた、何かが起こりそうな予感がしていた。
- 12/13 -

back


(C)Spur Spiegel


×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -