* * * *

 講義室を抜け出した俺は、どうしたものかと思慮に暮れていた。
 もちろん休憩がしたくて部屋を飛び出したわけではない。あんなことで心が揺れはしないが、未咲がいる前で醜態を晒すのはごめんだったのだ。
 少し思案した俺は、標本室を見に行くことにした。


 実習所の中をうろうろすること数分。
 ようやく"標本室"という退色して文字が消えかかったプレートを発見することができた。引き戸を苦労して開け、空気の淀んだ部屋に足を踏み入れてみる。
 そこは、時間が止まってしまったとも思える場所だった。
 床には埃が薄く堆積していて、歩みを進めると、カーテンの隙間から射し込む光のただ中で、細かい塵がきらきらと踊る。部屋には背の高い棚がずらりと並び、ガラス瓶がところ狭しと陳列されていた。元の色がすっかり褪せ、白く輪郭がぼやけた生き物たちが、容器の中でぴくりともせずただじっと浮かんでいる。多くは大小様々な形の魚で、他にはナマコやらゴカイやら、あとは名前も聞いたことのない動物もたくさんいた。
 昼日中だというのに、その室内の光景はどこか不気味で、背中の寒気を誘った。夜ならもっと雰囲気が出るだろう。無言かつ微動だにしない、かつて生き物だったものたちに囲まれて、生命があるのはここでは俺だけなのだ。そう考えると、別世界に迷いこんだような不可思議な心地がした。
 標本の表情は色々だった。あるものはかっと目を見開いて。あるものは半開きの口から、鋭く揃った歯を覗かせて。瓶に貼られたラベルを見ると、数十年前に採集された生物も珍しくない。ここだけが外界から途絶され、時間の流れが滞っている気分に捕らわれる。
 こういうの、変わったもの好きの未咲は気に入るかもしれない。後で連れてきてやるか、と思わず口元を緩めたとき、はっと身が固くなった。
 ――誰かいる。
 棚の向こう、物言わぬ標本が衝立のように並んだところに、目線を感じる。湿った目の気配。明らかに、こちらに感ずかれないように振る舞っている。
 ――誰だ?
 合宿の参加者なら、姿を隠す必要などないのに。しかもその気配は、俺の目線よりかなり高い位置から漂ってくる。参加者に、そんなに背の高い奴はいない。
 冷房も効いていない暑い部屋の中、俺は背中に冷や汗をかいていた。昨夜の、一対の鋭い眼光が思い出される。足元をかすめた、一陣の風も。
 俺は、何かに、つきまとわれているのか。
 体に緊張が走る。唾を飲む音がごくり、と嫌に響く。

「誰かいるのか」

 乾いた声でやっと問うと、謎の気配はすうっと消えていった。

「……何なんだよ、くそ……」

 額の汗を拭いつつ、俺はぼやいた。


 合宿の時間はあれよあれよという間に過ぎ、いよいよ三日間に渡る日程のメインイベント、バーベキューが目前に迫ってきた。昨日から自分について回る気配を一時でも忘れるため、一心不乱に課題に取り組んだ俺は、山のように積んでいたワークやらプリントやらを劇的に減らすことに成功した。これで夏休みの後半は、暑さをやり過ごしながらだらだらと日数を数えることができそうだ。
 俺が課題に向き合うあいだ、未咲は何やら不機嫌そうな様子で、しきりにあれを教えなさいこれも教えなさいと絡んできた。俺が何かしでかして、それに腹を立てているのだろうか。しかしそういう場合、いつもの未咲であれば俺に構わずほったらかしにするはずだ。未咲はどこか、彼女自身に腹を立てているようにも見えた。

「どうかしたのか」

 問うと、別に、と即座に突っぱねられる。女子は何を考えているのか、本当に掴めない。なので、未咲の機嫌が直るまで、俺はそっとしておくことに決めた。
 キリのよいところまで課題をこなし、ふと窓の外を見ると、目線まで陽が傾き、辺りが茜色の染まりつつあった。夏の盛りだと思っていたけれど、徐々に日の入りが早まっているのを実感する。今が真夏のピークで、あとはだんだんと秋の気配を感じるようになるのだろう。夏は嫌いだが、こんな季節の終わりには、誰もが抱くどこか切ない晩夏の郷愁が、自分の胸にも広がるのを止(とど)めることはできなかった。
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