* * * *

 深更に差しかかっているのに、俺は二段ベッドの下段で、まんじりともせずに皆の寝息を聞いていた。
 夜は散々な目に遭った。訳も分からず、花火を持った未咲に追いかけ回されたのだ。何なんだあいつ、と声に出さずに悪態を吐く。何か、俺のしたことがまずかったのだろうか。
 未咲と二人になる機会はなかなか訪れない。それどころか、真面目な話をする空気に自分から持っていくことすら、合宿中にできるか怪しかった。未咲相手だと、つい皮肉やら茶化した言葉やらが口を突いてしまうのだ。
 慣れないベッドの上で、今夜何度目か知れない寝返りを打つ。体は疲れているのに、目だけがいやに冴えていた。枕が変わるとなかなか寝つけないたちで、こういう時に苦労する。同室のみんなの穏やかな寝息が、夜の静寂(しじま)を強調している。
 それから一時間ばかり経っただろうか、やっととろとろとまどろんできたところで、不意に緊張に近い冴えが脳へと去来した。
 何者かの気配。部屋の中だ。体が強ばる。
 心臓のどくどくという鼓動が体に響く。視界を埋める暗闇の中、小さな点が二つ、ぎらりと光った。その光から目が離せない。金縛りに遇ったように、体が動かせない。これは現実か? それとも、夢なのか?
 永遠に終わらないと思える一瞬だった。自分の大きすぎる呼吸音を何回ともなく数えるうち、気配と光はふうっと消えた。
 ほーっと長く息をつく。金縛りの経験は何回かあるが、自分が特に霊感が強いと感じたことはない。さっきのは見なかったことにしよう。そう気を取り直して、壁側に顔を向け、暑くてたまらないがタオルケットを頭まで被る。
 そのあと見た夢は、お決まりの、あの山羊頭の男たちのものだった。
 こんな夜を、あとどれほど繰り返さなければいけないのだろう。朝目覚めたら、寝間着もシーツも寝汗でびっしょりと濡れていた。
 夏には、本当に調子が狂わされる。


 合宿二日目。起床した人間から昨日のカレーを流用したカレーうどんを朝食に啜り、一息入れたのち三々五々勉強を始める流れとなった。
 昨夜の妙な気配と悪夢とであまり眠れなかったため、お世辞にもいい気分とは言い難かった。俺は息抜きにと、桐原先生から大量に渡されていた論理の問題プリントを取り出す。
 黙々とそれらと格闘していると、隣にすーっと女子大生が移動してきた。
 俺の手元を覗きこんで、わあ、と大げさに驚嘆の声をあげる。

「すごいね、それ。その問題って高校の範囲じゃないでしょ」

 俺は思考を中断させて、声の主へと視線を移した。
 髪をアッシュグレイに染めたその人は、俺と目が合うとふわりと微笑んだ。朝からばっちりメイクをしている。

「おはよう。昨日はちゃんと眠れた?」
「……おはようございます。ぼちぼちですかね」
「そう? 君は茅ヶ崎龍介くん、だったよね。数学得意なんだ」
「はあ、まあ……得意というか、好きというか」
「いいなー、茅ヶ崎くん――龍くん。数学ができるって、かっこいいよね」
「……。いや、どうですかね……」

 面と向かってそんなことを言われたのは初めてで、何と返せばいいか悩み、言い淀む。しかも、初対面に等しい人に"龍くん"なんて親しげに呼ばれたためしなど、ほとんどない。どぎまぎするなと言う方が難しい。その上、彼女の格好は、昨日は衿が詰まったブラウスだったのだが、今日は胸元が深く空いたカットソーだった。
 色白の肌に刻まれた谷間の影。
 頬杖を突いているせいで、それがさらに強調されている。無理矢理にでも目線を外さないと、そこに引き寄せられてしまう。意識を逸らすので精一杯だ。
 女子大生はいたずらっぽく目を光らせて笑う。

「どうかした? ねえ、龍くんってモテるでしょ」
「は……いや、全然……」
「龍くん、私に数学教えてくれない?」
「えっ?」
「私ね、経済学部なんだけど、数学苦手なの。経済学部ってけっこう数学使うんだよね。ねっ、いいでしょ?」

 ずいと体が寄せられる。すっきりとした、けれど甘さのある良い匂いが香った。女の子ではない、女性の香りだ。ぐらっと頭が揺れそうになり、なんとかこらえる。
 白く長い指に腕を絡め取られそうになるが、すんでのところでするりとかわした。

「すいません、俺ちょっと、休憩してきます」

 休憩を口実に部屋を抜け出すと、なぜか未咲がジト目で俺を睨んでいた。

* * * *

 龍介がそそくさと講義室を出ていくが早いか、ぽつんと残された女子大生の元へ、太田くんのお兄さんが呆れ顔でやってきた。
 その表情は弟とびっくりするほど似ている。ちょっと苦労性なところも、兄弟で共通しているらしい。

「お前な、あんまり高校生をからかうなよ。困ってただろ」
「だって、龍くん可愛いんだもん」
「……ったく」

 女子大生は媚びたように科を作って笑う。
 わたしは苛々しながら、手が乱暴に動くのに任せ、課題の解答をカツカツと埋めていった。そこに苛々の原因があるように。ペン先で苛々の原因を潰していくように。
 龍介ってば、あんなんででれでれしちゃって、だらしない。彼女は龍介に興味津々のようだが、一体あいつの何に惹かれたというのだろう。
 そりゃまあ? 龍介は無愛想で口が悪いけどけっこう優しいし? わたしが手をあげても自分は絶対やり返してこないし? 数学に取り組んでるときのひたむきな横顔とか、割とぐっとくるし? 前髪であらかた隠れてるけど、よく見ると意外とイケメンだし?
 そんなの、なんにも知らないくせに。
 筆圧でシャーペンの芯がばきっと折れた。

「私、龍くんの連絡先聞いてみちゃおうかなー」

 女子大生が聞こえよがしに言う。わたしはそれを、聞こえないふりをしてやりすごす。
 何に苛ついているんだ、と自問自答する。別にいいじゃない。自然の成りゆきじゃない。出会いがあれば龍介を気に入る人がいて、その人と龍介が交際に発展するくらいのことが、あったって不思議でもなんでもない。龍介にも誰か特別な人ができて、その人の手を取って隣り合い、そうして彼は彼の人生を歩んでいく。
 そこまで考えて、目の奥が熱くなっている自分に驚く。
 嫌だ、とわたしはその時はっきり思ったのだった。
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