荷物を手放して身軽になると、建物内部をぞろぞろ歩き回って説明を受けた。トイレはここ。洗濯機はここ。お風呂はここ。お風呂は大浴場と個室なんだけど、人数が多い男子が大浴場使ってね。トイレに虫がいることあるから気をつけて。何の虫かは言わないでおくけど。
 そういえば、と太田兄が今思い出したように言う。

「ここ、大学の施設だっただけあって、標本室とか、二階には実験台付きの実験室とかあるよ。見たかったら自由に見てみて。頼んでくれたら案内もするし」

 へえ、標本ね、とあまり馴染みのない単語が耳に残った。
 ちょうどお昼時になったため、食堂へと移動する。車が別だった参加者同士で自己紹介をしつつ、仕出し弁当での昼食を終えると、いよいよ勉強の時間となった。二段式のどでかい黒板がある講義室を利用し、各自課題に取り組んでもよし、大学生に教えを請うてもよし、という塩梅だ。
 一度課題を持って講義室に向かった俺だったが、ペンケースを鞄に入れっぱなしだったことに気づき、やれやれと思いつつUターンする。ところどころ塗装が剥げたドアを開けると、中から真夏に似つかわしくないひやりとした空気が流れ出て、顔を撫でた。冷気の不意打ちに背筋がぞくっとなる。
 何かが足元を掠めるような気配がした。
 中に誰もいないと思っていたから、反射的に体がびくりと跳ねる。咄嗟に下を向いたが、影は捉えられない。廊下へ頭を向け、右左と見渡してみても、何の気配も感じられなかった。
 二度三度と首を振るう。気のせいだろうと思い込む努力をする。さっき太田兄に、物音とか足音などの変な話を聞いたから、神経がおかしな具合に立っているだけだ。きっと。
 気を取り直し、がやがやとした喧騒が満ちる講義室に舞い戻る。これまで放置ぎみだった課題にあせあせと取り組むあいだに、その昼の不可解な出来事は脳のしわの隙間からこぼれ落ちていった。

* * * *

 龍介から勉強合宿の誘いの連絡が来たとき、わたしは驚いた。そして同時に、ありがたくもあった。
 どこかに、頭を切り替えるきっかけがあればな、と思っていたからだ。


 学生は夏休みで浮かれているというのに、わたしの心の中の風景は、落葉しきった晩秋の林のように寒々としていた。会長との――悟さんとの関係が、にっちもさっちも行かなくなっていたのが原因だった。
 悟さんからのキスを避けてしまってからも、二人きりで会う機会は何度かあった。けれど、素敵なお店で美味しそうな料理とデザートを前にしても、どうにも気持ちは浮き立たなかった。好きなはずの人といるのに、座りが悪くて、もぞもぞする。美味しいはずなのに、何の味も感じなくて、砂でも噛んでいるよう。
 そして、真ん前にいる悟さんの目を、どうしてもまっすぐ見ることができなかった。この人は、わたしを女として、そういう対象として見ているのだ、と考えると耐えられなかった。席を立って逃げ出してしまいたくなった。本当に、勝手な話だと思う。悟さんには申し訳ない気持ちでいっぱいだった。手を伸ばせば触れあう距離にいるのに、厚いガラスで隔てられたように、そこには決定的な壁が立ちはだかっていた。
 悟さんは、雨粒をぎりぎりまで孕んだ曇天にも似た表情を浮かべている。整った顔は、くしゃりと泣き出しそうに歪んでいた。わたしのせいだ。わたしが変なことをしなければ、彼にそんな似合わない顔をさせることもなかったのに。
 もう元には戻れないのだと互いに分かっていた。それほど溝は深まっていた。一度自覚した違和感は、拭い去ろうとしても消えてくれない厄介な代物だ。それこそ、ガラスの向こうにこびりついて落ちない汚れのような。
 氷で薄まったアイスコーヒーを掻き混ぜながら、ね、と悟さんが優しい声色で沈黙を破る。

「俺が未咲さんのどこを見て、好きになったのか分かる」

 遠く遠く、何百光年も離れた星の光でも探すように、その目はどこか別の場所を見ていた。
 首をふるふると横に振る。

「分からないです」 
「うん、きっと、そうだよね。――前、放課後に未咲さんと茅ヶ崎くんが、一緒に牛丼屋に来たことがあったでしょう。あの時の未咲さんの笑顔。それを見て、俺は君が好きになったんだ」
「え、み……見てたんですか……」

 思いもよらないカミングアウト。
 あれは何月だっただろう。龍介を強引に図書館から連れだし、馬鹿話をしながら一緒に牛丼を頬張ったのは。そういえばあの時、バスケ部の集団がいたようにも思う。でもまさか、悟さんに、あんなあられもない姿を見られていたなんて。この期に及んで恥ずかしくなり、極限まで俯いた。
 悟さんがぽつぽつと言葉を紡ぎだす。
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