夏が来ると、決まってあの夜の夢を見る。
 蝉の鳴き声と、草いきれと、滑(ぬめ)った眼。俺が、誘拐された日のことだ。


 小学2年の夏休み。その日も、俺は未咲と輝の二人と一緒だった。小学校の敷地内で、虫取りをしていたのだ。
 あたりが薄暗くなってきたところで、自分たちがかなり遅い時間まで外にいるのだと知った。薄闇があたりを飲み始める。夏とはいえ、日が沈めば暗くなるのに時間はかからない。その際に、慌てて帰ろうとしたのがいけなかった。
 右手が空っぽなことに気づいたとき、帰り道は半ばに差し掛かっていた。家を出るときには手に収まっていたはずの、虫取網を学校に忘れてきてしまっていたのだ。にわかに慌て、幼なじみ二人には先に帰ってもらうように伝え、俺は元来た道を走って戻った。
 忘れられた網は所在なげに、まだ続く蝉時雨の下、桜の木の根本にぽつんと落ちていた。無事に持ち物を回収した俺は安堵して、明日はどこに行こうかなあ、今日の夕飯は何かなあ、などと考えつつ、一人で帰路を辿りはじめた。
 夕陽は山陵の向こうへ落ち、世界は急速に彩度と明度を失いつつあった。道路のアスファルトから、昼間の陽射しで蓄えられた熱気が、むわっと立ち上っていた。その上から、色々な蝉の鳴き声が、雨のように降り注ぐ。その時だ。後ろから車のエンジン音が近づいてきたのは。
 俺は気にも留めず歩き続ける。すぐ後ろでエンジンが停止する。かと思うと、ばらばらと人が出てくる音が続き、何事かと振り返る間もないまま、後ろに体が引かれた。あれよあれよという間に目隠しをされ、俺は乱暴に車内へと連れ込まれていた。
 突然の事態に、何が起こったのか分からなかった。誘拐、という言葉は知っていたけれども、それが自分の身に降りかかろうとは露ほども思っていなかった。頬から伝わるシートの硬さ。俺はなす術なくじっと息を殺した。頭は混乱している一方でやけに冴えていて、状況を把握しようと目まぐるしく回転していた。車体に震えが走り、全身へのGのかかり方で発車を知った。
 車内で飛び交うくぐもった声はすべて男のもので、日本語ではなかった。当時の俺は外国語に触れた経験がほぼないと言ってよく、突然連れ去られたことより、見知らぬ人間に取り囲まれていることより、男たちが意味の取れない言葉を話していることが、幼心を一番震え上がらせた。
 次に車体が止まるまで、何分かかったのかは分からない。一時間かかったようにも思えたが、案外5分くらいだったかもしれない。とにかく車は停車して、目隠しは外された。
 周りに街灯はなく、車の内部まで薄暗かった。節くれだった手が、うつ伏せた俺を起こした。その手の生々しさと熱さを、今でも覚えている。怖々と様子を伺うと、一人は横から、一人は運転席から、一人は助手席から、こちらを見つめていた。背中がぞっと粟立つ。三人全員、顔は分からなかった。辺りが暗かったから、ではない。
 彼らは人の顔を持たなかった。
 皆、頭に山羊の被り物をしていたのだ。
 その時になって、体が震えだした。あれを塗り替える恐怖を、俺はまだ味わっていない。悪夢でも見ているようだった。閉塞感が満ちる狭い車内にあって、それは大きすぎる存在感をばらまいていた。ごわごわした毛並み、半円を描く角、横に広がった瞳孔。光が乏しい中で、山羊の頭は本物みたいに見えた。それが、人の体からにょっきりと、文句を寄せ付けぬ様子で、当然のように伸びているのだ。生理的な嫌悪感で、吐き気が喉の奥からせり上げた。
 助手席の山羊男が何か言い、正面にいる男が応えて頷く。無造作に腕を掴まれる。その手は血管が浮き、確かに血の通った人間のものだった。これは悪い夢などではない。相手は本物の人間だ。そのことが、こみ上げる嫌悪を助長した。
 恐怖で体が強張っていた。ほとんど抵抗もできないまま、男に指で無理やり口を開かされる。視界が潤む。男は涎が垂れるのも意に介さず、もう一方の手を俺の口内に突っ込んだ。
 喉の奥の異物感。おえ、と反射的に嘔吐しそうになる。とうとう涙があふれた。
 男が手を引き抜くと、すぐさま水を多量に飲まされて、口蓋を力ずくで閉じさせられる。口の中に粒状の何かがあった。嫌だ。飲みたくない。そのもがく思いも空しく、俺の喉は水と一緒に、その何かを食道へと押しやる。
 途端に、ぼうっと白い諦念が思考を包んだ。ああ、これで死ぬのか、というぼんやりした絶望が。
 その時だ。男たちがぴくりと何かに反応した。
 刹那、強い光が車窓の闇を裂いた。
 かっと辺りが照らされる。車のヘッドライトのものらしい、二条の眩い光。力強いエンジンの重低音。周りの木立が影絵となって、光の動きに呼応する。間髪入れず、三人の山羊男が弾かれたように外へわらわらと出ていく。 
 何が起こったか見届ける勇気も出ず、俺は力なくシートにもたれかかっていた。外からばしっ、ばしっ、という聞いたこともない強烈な衝撃音が聞こえてくる。それと同時に、どさっ、どさっ、という質量のあるものが倒れるような音も。
 永遠が流れたかに思えた。まるでもう死後の世界にいるみたいに、現実感を忘れてしまっていた。昼間、二人の幼なじみと笑いあっていた自分との、なんという遠い隔絶だろう。ふと、ゆるゆると手を挙げて、なんとなく頬をつねってみると、痛かった。
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