桐原先生の家では、リビングのソファでヴェルナーがのんびりと寛いでいた。俺の護衛は先生の家を拠点にしているのだ、と説明を受ける。先生より先に帰ってるなんて、やっぱりこの人は真面目に護衛なんかやってないんだな、と思う。今さら、落胆も怒りもないけれど。
 俺の姿を認めると、まるで来るのを予期していたみたいに、整った顔を歪ませて上品とは到底いえない笑みをつくる。

「おっ、来たな。なあ坊っちゃん、オッドアイの黒猫に話しかけるのは、もうやめといた方がいいぜ」
「……あんたも見てたのかよ」
「見てたっつーか、俺は聞いただけだけどな。どこに人の目があるか分からねえんだ、ちょいと用心するのをお勧めするね。いいかい、人の目ってのはな、人間の目じゃないかもしれないんだぜ」

 さっぱり意味が分からない。この人は一体何を言っているのだろう。禅問答でもしているのだろうか。
 困って桐原先生に視線を移すと、肩を竦められた。放っておけ、という意味だと勝手に解釈する。

「ヴェル、少し外してくれるか。茅ヶ崎と話がしたい」
「はいはい、邪魔者は消えますよっと。あとは二人でごゆっくり」 

 ヴェルナーは不審なほど物わかりよくドアの磨りガラスの向こうへ消える。俺は桐原先生に促されてリビングのソファに座る。
 先生は、俺を見ている。星のない夜空の瞳。底知れぬ夜の海の瞳。

「聞きたいこととはなんだね」

 俺は思っていることを、考えていることをできるだけ詳しく話した。分かりやすく説明できた自信はないけれど、先生は何も言わずに耳を傾けてくれた。
 そして俺は問う。先生が、俺に声をかけてくれたこと。あれは計算だったのか、と。
 疑問を形にしてしまってから、無意識に腿の上で拳をつくる。掌にはいつの間にか汗をかいていた。緊張しているのだ。
 それでも、下を向くことはしなかった。
 先生がふ、と短く息を吐く。その口が開くところが、微速度撮影の再生かと思うほどスローに見えた。
 先生が、いや、とあっさり否定したので、俺の全身から一気に力が抜ける。

「あれは純粋に、教師としての欲求だったんだ。能力があるのに、それを持て余している。くすぶらせている。勿体ないと思った。それに、君があまりにも昔の私に似ていたから、見て見ぬふりができなかった」
「あの人も……ヴェルナーさんも、そんなこと言ってましたよね。俺、そんなに似てるんですか」
「ああ、いや」

 先生はいたずらが見つかった子どものように、決まり悪そうに笑う。らしくない表情だ。でも、悪くない表情だ。

「あの男が言うのは見た目だろう。そうじゃなく、境遇という意味でだ。私も数学に没頭したかったんだが、環境がそれを許さなかった。まあ、私は君とは違って、ただの凡人だがね」
「凡人なんて――」
「事実だよ」

 先生は、目尻を下げて、表情を緩める。

「私の行為が、君の言うように解釈できることに思い至らなかったよ。私のしたことが、君を追いつめていたんだな。すまなかった。あの事前問題と証明のミスも、私のせいだったんだな。どうか許してもらえないか」

 先生は深々と頭を下げる。元はといえば俺の勘違いが原因なのに。大人が躊躇いなく詫びる姿を見慣れていないため、慌てる。込み上げるものがある。そんな、と自分も頭を下げると、手の甲が濡れる感覚があった。ぽたりと、水滴が落ちたのだ。
 俺は泣いていた。
 自分がこんなに追いこまれていたなんて、知らなかった。ただこれは、悲しみとか怒りだとか、感情が昂ったときの涙ではない。感情が弛緩したときの、安堵の涙だ。
 この涙は、あたたかい。
 大丈夫かね、と先生がやや焦った調子で言う。俺は、おなかに力をいれて、はいと答える。昨日の力ない返事とは違うと宣言するように。一直線に、しっかりと先生まで届くように。

「それなら、いいが」
「……あの」
「うん?」
「数学の証明問題、試験が終わったら再開してください」
「ああ、分かった」
「それと、この前の質問の答えなんですけど」
「質問?」
「先生のこと、怖くないです。俺にとって先生は、先生ですから」
「そうか」

 先生が相好を崩す。立派なたてがみを持ったライオンを連想させる、強い包容力を感じる笑み。俺もつい釣られて笑う。
 そこで、話は終わったみたいだな、と舞台俳優ばりの大袈裟な仕種とともに、ヴェルナーが帰ってきた。

「いくら男の子とはいえ、他人を泣かすのは感心しないねェ」
「貴様、ドアのそばで全部聞いていたな」
「何のことだか」

 桐原先生は一転して凄味のある顔になる。刺々しく冷たい視線を、ヴェルナーは小首を傾げるだけで受け流した。
「それより錦、飯は」
「……今から作るから待っていろ。茅ヶ崎はどうする? 夕飯、食べていくかね」
「……はい」

 俺はまた迷わず答える。


 夕食は、煮魚を中心にした純和風の献立だった。
 茶碗に盛られた真っ白なご飯から、ほかほかと湯気が立ち上る。それがやけに眩しく目に染みた。
 俺の前に先生が座っていて、その隣にヴェルナー。日本人と遜色ないくらい器用に箸を使っている。へえ、とちょっと意外に思う。

「今回も遅くなってすまんな。親御さんに謝っておいてくれ」
「いや、食べていくと言ったのは俺なんで……。親には先生が準備してるあいだ、連絡しときました。母さ――母が、後で菓子折りとか持ってくかもしれません。いつもお世話になってますとか言って」
「そういうのは気持ちだけで充分です、と君から言っておいてくれ」

 穏やかだ。会話も、心の内も、料理の味も。
 食事の際に数日間感じていた、砂を噛むような感覚もすっかり無くなっていた。一回の咀嚼ごとに、素材の味が湧きだすみたいに濃くなってくる。それを存分に味わう。味わえる。
 美味しい。心の底から思う。とても美味しい。
 美味しさとは喜びなのだ。

「先生が作る料理って、ほんとに美味しいですよね」
「そんなにしみじみ言うほどではないと思うが……。自分の家で食べるものは違うのかね」
「いや、家のも美味いんですけど、洋食が多いというか――レストランみたいな食事が多いんで。こういう和食はあんまり無いです。おふくろの味っていうか」

 いきなり、黙々と箸を動かしていたヴェルナーが盛大に吹き出した。先生が信じられないといった表情を浮かべる。

「汚いな……何なんだね急に……」
「いやだって、生徒にもオカン認定される錦って……あーもう面白すぎ」

 ヴェルナーは肩をぷるぷる震わせながらダイニングを出ていく。扉が閉まった途端、一人で笑い転げるヴェルナーの声が聞こえてきた。
 桐原先生の深い嘆息。

「ああいう大人になってはいかんぞ」
「分かってます」

 俺は神妙に頷く。
 できれば桐原先生みたいな大人になりたいな、とダシの利いた味噌汁を啜りながら考えた。

――僕の青の理由
(title :失青)

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