結局、下校を促す校内放送が流れるまで、俺たちは和気藹々(わきあいあい)と試験勉強を続けた。ちなみに、3箱のお菓子は女子二人によってチョコが溶ける間もなく無くなった。女子ってすげえ。
 帰り際、太田が携帯を取り出し、俺の前で左右に動かす。

「茅ヶ崎、良かったらだけど、連絡先交換しない? うちで分からないとこあったら聞いてもいいかな」
「いいけど、俺メールと電話しかねえぞ」

 えっと太田が漏らし、SNS の名称をいくつか挙げるが、俺はすべてに首を横に振る。

「マジかあ……茅ヶ崎も登録してみたらいいよ。トークの方が楽だしさ」
「うーん……」
「じゃ、とりあえずメアド交換しようぜ」
「あたしも!」
「私も!」
「ちゃんと許可取れよお前ら」

 3人の(というより主に女子二人の)勢いに気圧(けお)されながら、俺は不慣れな連絡先交換の手順を踏む。もしかしなくても、これが高校に入学して初めてのメアド交換だ。
 無事に登録が済むと、短髪女子が俺の目を見つめながらにっこり笑った。

「茅ヶ崎くん、今日はありがとうね。おかげでちょっと分かるようになったよ。あたし、茅ヶ崎くんと一回話してみたかったんだ」

 横から、私も! と編み込み女子が加わってくる。

「喋ってみたかったけど、きっかけが掴めなくて。茅ヶ崎くんの教え方、すごい分かりやすかったよ。本当にありがとう」

 そんな風に思われていたなんて。意外すぎて、俺は返すべき台詞を何も思いつかなかった。怖がられているとばかり予想していたのだが。
 ありがとうという言葉は、人からの感謝など滅多に受けない俺には、少し、いやかなり、気恥ずかしいものだった。
 太田は呆れたと言わんばかりの視線を二人に向けている。

「どうせ茅ヶ崎がイケメンだからだろ」
「それが理由で何が悪いんですかー?」
「開き直んな」

 教室を出る。窓から見える景色はまだ明るい。ちょうど西の空にだけ、雲の切れ間がある。夕陽が空と雲を赤々と染め上げながら、今日という一日を引き連れて燃え落ちていく。

「茅ヶ崎はチャリ通? 電車通?」
「いや、俺はちょっと職員室に用があるから」
「これから? そっか、じゃあまた明日な。テスト終わったら飯でも食いに行こうぜ」
「私はイタリアンがいいなあ」
「あたしはタイ料理!」
「言っとくけどお前らには奢んねえからな」
「茅ヶ崎くんばいばーい」
「ばいばーい」
「聞いてんのかよ……」

 3人に手を振り返し、その後ろ姿が見えなくなったところで、俺はさてと体を反転させた。
 向かうは職員室だ。
 朝から予期しないこと続きだったけれど、悪くない日だった。やわらかく穏やかな気持ちで満たされている。これが充足感というやつだろう。
 "むやみに怖がらなくてもいいんじゃない。"
 昨日のヴェルナーの台詞を思い出す。確かに。今なら多少は同意できる。
 俺は一歩一歩しっかりと、歩数を刻むように廊下を進む。頭にあるのは、桐原先生のことだ。

 "ずっと前から知っていたんだ。"
 "8年前に、影を辞めたときからな。"

 先生のその台詞が、耳に残っていた。心の喉元ともいえる場所に、ささやかな、しかしくっきりした痛みの輪郭を持って、引っかかっていた。
 入学当初のことを思い返す。先生が、俺の試験の解答を美しいと言ってくれた瞬間のことを。俺の目をまっすぐ見て、俺一人のために向き合ってくれた時のことを。
 あの時の俺は何も知らなかった。先生の過去も。先生がいた世界も。先生が何を考えているかも。
 何日ものあいだ、自分を内面から苛んでいた問いを、今の俺は明確な言葉で表すことができる。

 それは、桐原先生が自分に目をかけてくれたのは、俺の信頼を得、影の話をすんなり信じさせるための"計画"ではなかったか、という疑念だ。

 俺が先生の立場だったとして、"影"の話を生徒に話すつもりがあるなら、その前にその生徒に目をかけておくだろう。でなければ、未来の見える人間がいるだとか、秘匿された倫理違反の犯罪グループの存在だとか、それに敵対する組織が身近にあるだとか、そんな突飛な話をすんなり信じられるはずがない。
 それこそ俺は、桐原先生が言うから渋々信じたのだ。ヴェルナー一人が相手だったら、馬鹿馬鹿しいと断じて帰っていた可能性だってある。
 "生徒のために何でもしたいと思っているものだ。"
 先生はそう言った。
 あれは、計算されたものだったのだろうか?
 あれは、俺の信用を得るための、本心とはかけ離れた方便にすぎなかったのだろうか。打算的で、まるで人間味のない、無味乾燥な行為だったのだろうか。
 俺はあの時、とても嬉しかった。やさぐれた俺の心に、あたたかい光が投射されたように思えた。
 しかし、俺のこの感情が、意図的に作り出されたものだったとしたら。
 桐原先生に直接問いかけて、もし答えがイエスだったら、俺は確実に傷つくだろう。そして再び、他人など信用に足らないという思いに囚われるだろう。
 昨日までの俺ならば。
 昨日の俺と今日の俺は、少しだけ違う。クラスメイトのおかげで、自分を受け入れてくれる場所が、どこかにはあるだろうと信じることができる。それは、ピアノソナタが短調から長調に転じるような、些細で、それでいて明確な違いだ。
 俺は桐原先生に会うために、先生に問いをぶつけるために、職員室に向かっている。下校時間が迫っているが、たぶん、先生はいるはずだという無根拠な確信を持って。
 弓道部員の彼らを真似て、背筋を伸ばし、胸を張る。ノックをして、職員室のドアを開く。
 今しがた帰ろうとしていた先生が、俺を見て驚きに顔を染める。それは果たして、桐原先生だった。
 職員室には他に先生はいない。好都合だ。

「なんだ、まだ帰っていなかったのかね。早く校舎から出た方がいいぞ」
「……聞きたいことがあるんです。"影"のことで」

 俺はまっすぐ先生の目を見据える。逸らさずに、真正面から。こんなにも近くから、先生の視線を受け止められる。
 先生はそんな俺の様子から何か察したのか、私の家に来るかね、と静かに問う。俺は何の逡巡もなく頷きかえした。
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