「ほう、交換条件ってわけかい? いいぜ、言ってみな」
「……影の一員である以前に、今の私は一介の教師だ。だから、もし影と教師の立場で相反する決定を迫られた時には、教師としての立場を優先させてもらう」

 ふむ、なるほど、とヴェルナーが頷く。

「それは問題ないと思うぜ」
「もうひとつ」
「我(が)が強くなったもんだねぇ、お前も」

 にたにたと笑うヴェルナーの冷やかしには応じず、

「貴様は昨日、"茅ヶ崎龍介の護衛のために来た"と嘘を吐いたな。その"嘘"を、"真実"にしてほしいんだ。茅ヶ崎の護衛を実行してくれるなら、私も貴様らに加わろう」

 何事か推し量るように、ヴェルナーがふうんと漏らす。桐原の言い分を咀嚼(そしゃく)するための、短い沈黙がそれに続く。

「……いいだろう。上にはそのように報告しとくよ。でもさ、そんなにその子が大切なの?」
「……教え子は皆大切だ。貴様には分からんだろうが」
「ま、お前が戻ってくるなら何でもいいけどね」

 ヴェルナーが肩をすくめる。
 ふと、桐原の胸に昨夜と同じ不安の雲が再来した。この男の言葉を、全面的に信じていいものだろうか。許可してもいないのに、勝手にベッドに潜り込んでくるような奴だ。
 自分が組織の駒として、某(なにがし)かの目的のために使われ、その挙げ句捨てられることになろうと、別に構わない。ただ茅ヶ崎龍介の身に及ぶ危険は、排除しなければならない。

「ヴェル。確認だが、貴様……本当に護衛をするつもりがあるんだろうな?」
「んだよ、それ。俺のことを信用してねーのか?」

 ヴェルナーがむっとして頬を膨らます。

「お前だけは俺のこと信じてくれるって思ってたのに!」
「貴様、自分が信頼に足る人間だと思うのか?」
「いや全然」
「……」

 言葉を失う桐原の前で、ヴェルナーがあっと思いついた様子でぱちんと指を鳴らした。

「だったらそのお坊っちゃんに、俺が護衛につくって話をしよう。そしたらさすがの俺でも怠けてはいられなくなる。疑り深いお前も安心だろ」
「"さすがの俺でも"という発言は気になるが、まあ確かにな……だが影の話をしたら、罪のことまで伝えなくてはいけなくなる。茅ヶ崎は一般人だぞ。大丈夫なのか?」

 懸念を口にする。
 たとえ罪に狙われていたとしても、特定の人物に対して、影のメンバーが自分たちや罪の活動を説明するなど、皆無といっていい。情報はどこから漏れるか分からない。影や罪の存在を知る者の数は少ない方がいいのだ。ヴェルナーの提案は影の方針に反するものなのに、その口調は軽々しすぎる。
 当の本人は気楽に笑って、顔の前でひらひらと手を振っている。

「ああ、大丈夫大丈夫。初めから影と罪の話はするつもりだったから」
「……初めからだと?」

 喉の奥から嫌悪感がせり上がってきて、奥歯を噛み締める。あまり良い気分ではなかった。

「初めから、とはどういう意味だ」
「"茅ヶ崎龍介は、いずれ知ることになる"」

 ヴェルナーが、天からの啓示を読み上げるがごとくに諳(そらん)じる。

「……何だね、それは」
「シューニャが言ってたんだ。意味は俺には分からねぇがな。彼はいずれ知ることになるから、影のことも、罪のことも、すべて話せってよ」
「よく分からんが……つまり貴様は、影と罪の話を茅ヶ崎に伝えた上で、傍観を決め込もうとしていた、そういうことか」
「うん」

 重々しく問うた疑問への、極めて軽い返答。
 長く深いため息を吐く。どうしようもなく不快感が湧いてくる。

「貴様ら影のやり方はやはり気に食わん」
「そうは言っても、今日からまたお前も、こっちの世界の人間なんだぜ。にしても、俺の言った通りになったなあ」
「言った通り?」
「お前が影を去る日、俺がお前に言ったこと、覚えてねぇか?」
「……」
「ほら、お前の場所は空けておくから、いつでも戻ってこいってやつ」
「……ああ」

 それは記憶の片隅で、埃にまみれて転がっている程度の、ひどく朧気(おぼろげ)な情景だ。初対面のときの台詞といい、本当に些末なことばかり覚えている男である。
 別れの日、ヴェルナーはどんな表情を浮かべていただろうか。桐原は思い出せない。あの頃のことを忘れたくて、忘れようと努めていた結果だろう。それでも、彼女の姿だけは、どうしても記憶から消えてくれない。
 忘れた方が楽だと理性では分かっている。けれど、一枚皮を剥いだところにある本能が、それを拒否する。覚えているのは結局、忘れたいことばかりだ。
 影を去ったあの日、この目に映る人々の幸せくらいは、自分の手で守るのだと決めた。その決意が今、試されているような気がする。
 日本は平和だ。自分が8年間で牙を抜かれ、人の気配に気づけなくなってしまうほどには。ヴェルナーは茅ヶ崎に、すべてを話すと言った。平和な国で生まれ育った少年は、ひとつの才能に恵まれた普通の高校生は、ろくでもない世界の有り様を、果たして受けとめられるのだろうか。
 支えなければならない。そう思った。

「それじゃ、約束だぜ。俺がお坊っちゃんの護衛をする代わり、お前は影に戻る。二言はないな?」
「ああ。影が私をどんな形の歯車として期待しているのかは知らんが、その役目を果たしてみせようではないか」
「いいねえ、その憎まれ口。それでこそ錦だ」

 ヴェルナーが愉快げに唇の端を引き上げ、気取った調子で右手を差し出した。

「再びようこそ、イカれた世界へ」

 桐原はその手を取る。

――過去からの来訪者

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