「……すぐには返答しかねる。少し、考える時間をくれないか」

 ヴェルナーが鷹揚(おうよう)に頷く。

「ああ、いいぜ。俺達もしばらくここにいるしな。ゆっくり考えたらいい」
「すまんな。答えが出たら連絡するから、連絡先を教えてくれるか」
「ん? 別に、口頭で直接伝えてくれたらいいよ。しばらくここにいるっつったろ」

 桐原にはその言が咄嗟に理解できない。同時に、黒い不安の雲が心の中に湧き立ち始める。

「……すまない。何か、誤解があるようだ。貴様の言う"ここ"とは、どこだ? 私は"この街"と理解したのだが」

 ヴェルナーが目を見張り、えっ違う違う、と手を振る。嫌な予感はもはや暗雲となり、胸の内を覆い尽くしている。
 彼の右手の人指し指が、真っ直ぐ下を示した。

「"ここ"って、ここのことだよ。お前んちのこと」

 ――この男は今何と言った?
 雲の上で、遠雷が唸る。

「……貴様が何を言っているのか分からないのだが」
「えーだから、しばらくお前んちに居候させてもらうってこと」
「は?」
「え?」

 大気をつんざいて雷が落ちた。
 ヴェルナーがきょとんとして、駄目なの? と言う。
 もうどこから突っ込めばいいのやら分からない。本当に頭痛がしてきて、こめかみを押さえた。気分は土砂降りである。
 ハンスの膝の上で、ノイが退屈そうにニャアアと鳴いた。 

「……どうしてそう……貴様は勝手に……」

 開いた口が塞がらないとはまさにこの事だ。
 ヴェルナーは不服そうに口を尖らせる。

「えー別にいいじゃん俺とお前の仲じゃん」
「勝手に事を決めるんじゃない! 貴様がどう思っているのか知らんが、私は貴様にかける情けなど持ち合わせていないぞ」
「冷てぇなあ錦は。意地悪。ケチ。錦のケチくさ野郎」
「どうとでも言え。ホテルにでも泊まったら良かろうに」

 途端にヴェルナーが声を荒げ、

「ホテルに泊まる金なんてねーよ! どんだけ影に吸い取られてると思ってんだよ。日本までの飛行機代ですっからかんだっての!」
「ちょっと待て、どうして貴様が怒るんだ」
「しかも支援部隊の奴に仕事を斡旋してもらおうと思ったらなあ、日本でお前ができる仕事なんかねーよバーカって言われちまったんだよ!」
「……」
「違うもん! 俺のせいじゃないもん!」
「……一応、仕事を探す努力はしたんだな」
「俺は悪くないもん!」
「おい……泣くなよ……」

 おいおいと顔を手で覆うヴェルナーを慰めようとして、いやこの男は身勝手にも居座ろうとしているのだと思い直し、手を引っ込める。
 ハンスは己の上司の醜態を呆れて見ていたが、こちらに向き直って非の打ち所のない笑顔を作ってみせた。

「僕はご厄介には及びませんよ。能無しのこの人と違って仕事も見つかると思いますし、いざとなったら野宿でも大丈夫です。でも、この子だけはこの部屋に泊めてあげてほしいんです、女の子なので」

 そう言って、黒猫を膝の上で抱える。ノイはニァーアと機嫌良さそうに長く鳴いた。
 青と金、それぞれ一対の眸に見つめられ、桐原は思わずたじろぐ。

「いや……ここの物件はペット禁止でな……」

 反射的に紡いだ言葉に対し、ハンスが信じられない、と言わんばかりの表情を浮かべた。

「……! ノイはペットじゃありません、僕の大事な相棒です!」
「違うんだ、言葉の意味が問題なのではなく」
「どうかお願いします、桐原さん」
「いやあの」
「にしきぃい」
「桐原さん!」
「…………」

 二人のドイツ人が泣き、怒る。喧騒に驚いたのか、ノイがハンスの腕を飛び出し、ニァゴニァゴと鳴き声を上げながら部屋を駆け回る。
 リビングに台風がやってきたかのようだ。
 ヴェルナーとハンスがあまりにもしつこく食い下がるので、最後には桐原の方が折れることになった。願わくばその無駄な粘り強さを、何か有用な方向に活かしてほしい。
 桐原は嘆息する。どうも自分は押しに弱くていけない。ヴェルナーたちのいいように事が運んでいる気もするが、すべては自分の不徳の致すところだろう。仕方あるまい。
 詰め寄る二人に、もういい、分かったと半ば自棄(やけ)になって言うと、赤い目と青い目がきらきらと輝いた。どうぞ勝手にしてくれ。

「二人とも、寝泊まりは許可する。ただし、食費くらいは出してくれよ。それから寝床はハンス君がソファで、ヴェルは床だからな」
「分かりました」
「えー……」
「不満か? だったら出ていってもらってもいいんだぞ。放り出されたいのか?」
「イエ、スミマセンデシタ」

 ヴェルナーがロボットよろしくぎこちなく頭(こうべ)を垂れる。それをハンスが嘲笑する。
 こうして不本意ながら、妙なドイツ人2人と猫1匹との共同生活が、幕を開けることとなった。
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