まとめると、情報をコントロールするために諜報部隊員を増やしたにも関わらず、罪の活動の拡がりを察知できずに、今度は戦闘部隊員が足りなくなり、辞めたエージェントを呼び戻している、ということになる。納得できる説明ではない。
「その流れはなんというか……おかしいのではないか?」
指摘すると、ああそうだ、とヴェルナーが珍しく神妙な顔をして頷いた。
「こんな事態は誰も予想してなかった。みーんなあたふたしてるよ。影の誰にも、何が起こってるのか分からねぇんだ。こんなことは初めてだ」
「どうしてそんな状態になる? 影にはシューニャがいるだろうに」
首を捻(ひね)りながら尋ねる。
シューニャは影の中でも数少ない、というよりも唯一の特級予見士だ。彼の見る未来は正確無比で、予想が外れることはない。不測の事態なるものと、影は無縁のはずだった。
そして、彼のその力によって、彼女は――ルネは死んだ。
「シューニャは予見を辞めたよ」
冷たい声音にはっとする。ヴェルナーの口元に浮いているのは、はっきりした冷笑だった。
「8年前からね。ルネの一件で、シューニャも少なからず傷ついたってわけだ。俺は、まだあいつを許す気にはなれねーけどな」
「……」
「あの時――お前が止めてなかったら、俺はシューニャを殺してたかもしれん。あいつがいなかったら、ルネが若くして死ぬこともなかったし、お前も幸せだっただろう。正直言って俺はあいつが憎いよ。お前はどうだ?」
ヴェルナーの眼の中心の、底のない深淵が、こちらを手招きする。引き込まれそうに思えて、桐原はその目からふいと視線を逸らした。
「……許すも何も、初めから私は腹を立ててなどいないよ。もしもの話はやめよう。あれは運命だった。シューニャが悪いんじゃない、仕方なかったんだ」
「そう言う割には、お前の方が引きずってるみてーだけどな」
言葉は桐原の心にぐさりと突き刺さる。言葉の棘を乱暴に引き抜いて、その辺に放り投げた。傷口から吹き出る血には気づかないふりをして、
「……昔のことはもういいではないか。一体、影に何が起きているのか――」
「どうにもきな臭ぇんだよ。何か、とんでもねーことに巻き込まれてる気がする」
ヴェルナーが焦点の合わない目をして呟く。それは独り言のようでもあり、ヴェルナーの体を借りて届いた、何者かからの警句のようでもあった。
「とんでもないこととは何だね」
「さあな。それは分からねぇけど」
「根拠はないのか」
「だって俺は予見士でも何でもねぇからな。で、戻るか、戻らないか。返答は変わらないかい?」
ヴェルナーは身を乗り出し、膝の上で指を組む。穏やかな顔つきで目を少し細め、返答を促すように小首を傾げた。
戻る? 影へ?
あり得ない、と思う。しかし茅ヶ崎龍介が狙われる可能性を思うと、否応なく彼の顔が目の前にちらつくのも確かだ。
「…… 私に何をさせようと言うんだ」
「俺もそれはまだ知らねえんだ。さしあたり、その茅ヶ崎くんって子の身辺警護の続きでもするんじゃねーかな」
ヴェルナーがゆったりとした口ぶりで、問いかけてくる。
「お前の心境を抜きで考えれば、そんなに悪い話じゃねーと思うけどな。影に戻れば武器の使用許可が下りる。今の状態じゃあもしそのお坊っちゃんが襲われても、お前は手をこまねいて見てることしかできんのだぜ。とっても心優しい錦くんにそれができるかい?」
冷やかしめいた言い方だったが、ヴェルナーの目はあくまでも真剣だ。その言葉は桐原の心境の核心を突いた。
桐原は自問自答する。果たして、彼が傷つけられそうになったとき、見殺しにできるのだろうか、と。あまりにも深く関わりすぎた、彼のことを。
自分は今、己の気持ちと、彼の身の安全とを、天秤にかけているのだ。
「……今でも、代わりに死ぬくらいはできるだろう」
「教え子のために身代わりになるって? そいつァ泣かせるねぇ」
ヴェルナーがひゅうっと口笛を吹く。
桐原はソファに背を預けて、しばし中空を仰ぎ見た。
影には戻れない、もうあんな思いを味わうのはごめんだ、という固い気持ちがある一方で、誰かが目の前で傷つくのを見るのはもう嫌だ、という気持ちが強いのも事実だった。
- 9/13 -
≪ back ≫