たっぷり10秒ほど、沈黙が続いた。
 夜の静けさが部屋の中まで染み込んできているような、耳に痛いほどの静寂だった。

「……まさか、私にもう一度影に戻れと言っているんじゃないだろうな」
「そのまさかだよ」

 ヴェルナーの口調はひどく穏やかなものに変わっている。桐原はぐっと拳を握りしめて、心の内で強く思う。
 戻れるわけがない。
 あんなにたくさんのものを失った場所へ、今さら戻るなんてできるはずがない。桐原の記憶にはまだ、身じろぎひとつしない彼女の姿が、熱を無くしていく体の感触が、生々しく焼き付いたままだというのに。これ以上、また何かを失えというのか?

「断る。無理だ」

 桐原の返答に、はは、とヴェルナーが力なく笑いをこぼす。

「そう言うと思ってたよ。ま、俺がお前の立場でも、戻るなんて言わねーだろうけどな」
「分かっているならなぜ――」
「シューニャに頼まれたんだよ」

 シューニャ。
 その不思議な響きは、桐原の胸に眠る複雑な思いを呼び起こした。
 その言葉自体は、サンスクリット語で空(くう)を表す形容詞であり、古代インドの数学ではゼロを意味する。ただし影においては、現在の影の指揮官たる人物を指す。
 桐原は8年経った今でも、一切の感情が抜け落ちた、漂白されたようなシューニャの顔を、鮮明に思い出せる。"彼の能力"と、"彼女の死"とは、切っても切れない結びつきを持っている。

「……会ったのか?」
「まさか。シューニャの居場所は機密扱いだぜ。俺みたいな半端者(はんぱもの)が会える相手じゃない。でも、電話で話したよ。お前の力が必要なんだと言ってたな。あと、お前に謝っておいてくれって何回も言われたよ」

 だったら自分で謝れってな、とヴェルナーが桐原に笑いかけた。
 ハンスは話が飲み込めないなりに、二人の会話に耳を傾けているようだ。
 謝る相手が違うのではないか、と桐原は思った。自分は別に、彼に腹を立てているわけでも、彼が憎いわけでもない。自分が彼に許しを与えることはできないのだ。その思いは当時と変わっていない。

 "貴方が謝ったところで、死者が目を覚ますことはありません。"

 自分がそう言ったときも、シューニャは能面に似たのっぺりした顔で、じっとこちらを見返していた。彼があの時に何を考えていたのか、桐原には分からない。

「シューニャに直々(じきじき)に言われたら、下っ端の俺が逆らえるはずねーだろ? 俺はシューニャが仰るとおり、遥々海を越えて、お前を勧誘しに来たってわけさ」
「……なぜ貴様がわざわざ来たのか分かったよ。私を説得するために、シューニャが選んだんだな」
「だろうね。お前と親しかったのは俺ぐらいだからな、今生きている影の人間では」
「親しかった、ね……」

 ヴェルナーは遠くを見つめる時の目をしている。昔に思いを馳せているのだろう。対する桐原の過去は思い出したくない出来事ばかりで、回顧する気にもなれない。
 ヴェルナーと自分はそんなに親しげだっただろうか。少なくとも桐原の中では、ヴェルナーへの苦手意識が大きかった。できれば関わり合いたくない類いの人間だとすら思ったものだ。
 ――いや、過ぎた日のことを考えるのはもう止そう。

「……私は言うなれば引退の身だ。そんな人間に戻ってきてくれと頼むほど、影は人手が足りていないのか?」
「そこを突かれると痛いねえ。お前が辞めたあと……2年後くらいだったかな? 戦略会議で戦闘部隊の人員を減らすことが決まったんだよ。新しい諜報部隊の部隊長が――こいつがいけすかねぇ野郎なんだが――これからは情報戦だ! 野蛮な直接戦闘ではなく、情報を掌握しコントロールすることで、罪の活動の拡大を防ぐべきだ! とか会議で一席打(ぶ)ちやがってな。代わりに諜報部隊が大幅に増員されたよ」

 その表情は、嫌いな食べ物を誤って口に入れてしまった時のように、渋いものだった。加えて、いけすかないと評した諜報部隊長への嫌悪感が、剥き出しの尖った犬歯に如実に現れていた。
 桐原はその部隊長に会ったことはないが、なんとなく人となりが想像できる。きっと、真面目な人物なのだろう。

「その時反対しなかったのかね」
「あん時ばかりは俺も同じ意見だったからねぇ」
「さっきいけすかないと言ったではないか」
「それはあれ、俺が持ってる個人的な印象」
「……そうか」

 ヴェルナーの話は、咀嚼すればするほど奇妙に思えた。
- 8/13 -

back


(C)Spur Spiegel


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -