「桐原さんは、"英雄"のことをご存じなんですよね」

 邪気のない声にはっとする。ハンスがきらきらした目でこちらを見ていた。治りかけた古傷を、錆びた刃物でざっくりと抉られた思いだった。心の中で、血が滴る。

「僕、"英雄"のことをとても尊敬しているんです。ヴェルナーさんから、桐原さんが"英雄"について知っていると伺って。僕はヨーロッパから離れるのは正直嫌だったんですけど、桐原さんに会えるならと、ヴェルナーさんに着いてきたんです」

 桐原はヴェルナーへ視線を移す。彼は組んだ脚を解いて、優しく微笑んでいた。
 瞬間的に、喉の奥から熱くどろどろした怒りが沸き上がってきた。この男が憎い。ふざけた面を、二度と笑えないくらい、めちゃくちゃにしてやりたい。どうしてこんな仕打ちができるのか分からなかった。

「良かったらお話を聞かせてもらえませんか」
「……後にしてくれ」

 桐原は吐き捨てる。ハンスは心底嬉しそうに、はいっ、と答えた。
 手が怒りでわなないているのを、指を握り合わせることで押さえつける。桐原は荒くなりかけた呼吸に気づき、一度深呼吸した。
 落ち着け。今怒りをあらわにすることに何の利もない。自分を殺せ。この場をしのぐことだけ考えろ。

「……それにしても、意外だ。組織は弱体化して、もう大それたことはできなくなったと思っていたが」
「そのことだけどねえ、それも説明しないといけないと思ってたんだよね」 

 桐原の怒りに気づかないはずがないのに、ヴェルナーの口ぶりは至極あっさりしていた。まるで明日の天気の話でもするかのように、緊張感に欠けた口調だった。 
 ヴェルナーはジャケットの内側に手を突っ込む。ハガキ大の、革の表紙の本らしきものが出てきた。 

「教皇が死んだあと、二代目教皇が選定されたんだよ。洗礼名はディヴィーネ。こいつが相当な曲者でな」

 ヴェルナーは本を開き、そこから一枚の写真を取り出してテーブルの上へ置く。革表紙の本は写真入れだったようだ。 
 桐原は写真に目を落とし、息を飲んだ。 
 30年生きてきて、これほど美しい人間は見たことがなかった。 
 まず目につくのは、肩口まで伸びた眩(まばゆ)いばかりの銀色の髪。そして、磁器に似たつやと透明感のある、なめらかな白い肌。何者かの意思の介入があったかのように、顔のパーツは全てが完璧な大きさと形を持ち、それぞれが寸分の狂いもなく顔の適切な場所へと配置されている。 
 おそらく隠し撮りされた写真なのだろうが、碧色の瞳は真っ直ぐこちらを見返している。生きている人間の目とは思えないほど、冷たく無機質な光を宿した双眸だった。限りなく人形の目に近い。桐原の背筋に冷たいものが走った。 
 全てが危ういバランスで成り立った人間。そんな印象を受ける。 

「……これは、女か?」 
「いや、男だよ。びっくりだよなあ。テロリストのボスなんかやってねーで、モデルにでもなってくれてたら俺たちも苦労しなかったのによ」

 この美貌の青年が、現在の罪の指導者。
 彼の口元には、酷薄な感じの微笑が張り付いている。その陰惨な笑みから目を背けたいのに、容貌の美しさが目を惹き付けてやまない。そんな妖しげな吸引力が彼にはある。
 ヴェルナーはさらにもう一枚写真を引き出した。 

「ディヴィーネは指示を出すだけでほとんど表には出てこねえ。実行部隊のなかでとりわけやばい奴がこいつだ。ディヴィーネの右腕のルカ。嘘か真か、一人で町ひとつ消したって話もある」 

 写真を見る。黒い髪、黒い服の青年が、どこかの街角に佇んでいる姿が写っている。頭身からして、かなりの長身だろう。ピントが少しずれていて表情がよく分からないのに、琥珀色の瞳だけが別の生き物のようにぎらぎらと光って見える。それが不気味だった。

「……まだ若く見えるが」
「ハンスと同い年らしいぜ、真偽は分からんが。こいつに限らず、今の罪は若い奴だらけだ。十代のメンバーだってごろごろいやがる。どうもディヴィーネに傾倒した若者が集まってきてるみたいなんだ。そいつらはディヴィーネに心酔しきってる。だからディヴィーネの言うことは何でも聞く」

 ヴェルナーが一呼吸置いて、

「それがたとえ、自分の命を危うくすることでもな」

 暗く冷たい口調だった。
 "美しさは人を狂わせる"。頭のなかで誰かが呟く。
 桐原は天井を仰いだ。自分の知らないうちに、罪は勢力を盛り返していたようだ。8年前の闘争で減らした人員を補い、影と対抗するだけにとどまらず、一般人をも狙うだけの力を取り戻した。その結果、茅ヶ崎の命が狙われる可能性が高まってきた。そういうことらしい。

「現況は大体掴めた。それで? 貴様らは遥々ドイツから何をしに来たんだ? まさか罪の連中が現れるかもしれないから気をつけろ、と伝えに来ただけなんて言わないだろうな」

 ヴェルナーがうんにゃ、と首を横に振って、

「茅ヶ崎……えー、リュウノスケ君が」 
「……貴様、名前を覚える気ないだろう?」
「いやあ、そんなことないって。えっと、彼が狙われそうだってんで、監視役としてハンスが、護衛役として俺が派遣されたってわけさ。お前の手も借りることになるかもしれないから、状況説明をしとこうと思ってな」 
「護衛……」

 二人のドイツ人の顔をじっと見つめる。ヴェルナーとハンスは示し合わせたように、同じタイミングでにこりと笑みを作った。
 自分にだけ聞こえるように、舌打ちする。
 ――気に入らない。心底、気に入らない。 
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