食器の片付けまで済ませてダイニングに戻ると、二人の姿はそこには無く、黒猫のノイだけが床にちょこんと座っていた。ノイは桐原を見るなり立ち上がり、尻尾をぴんと立ててリビングの方へ歩き出す。ついてこいと言っているようだ。あまつさえノイは途中で一度振り返り、ニァアと鳴いてみせたりもした。
 リビングへの扉を開ける。ノイはとてとてとてと迷うことなく進み、二人掛けのソファーに腰かけていたハンスの膝に飛び乗って、そこにちんまりと収まった。
 ハンスの隣ではヴェルナーが長い脚を組んでいる。まあ座れよ、と彼は一人掛けのソファーを指差した。

「ここは私の家なんだが」
「お前のものは半分くらいは俺のものみたいなもんだろ」
「どういう理屈だ。とにかく、話というのを聞かせろ」

 ヴェルナーが口の端に引きつったような笑みを浮かべた。つくづくこの男は嫌な笑い方をする奴だと思う。

「俺がここに来たってことはどういうことか、もう大体分かってるんだろう?」

 胃の底がずしりと重くなる。
 一人の教え子の顔が思い浮かんだ。
 鋭い視線と、ぶっきらぼうな口調と、刺々しい雰囲気と、デリケートな精神と、数学の才とを併せ持った、一人の男子生徒。

「……茅ヶ崎のことだな」

 観念したように言うと、ヴェルナーが勿体ぶった様子で首肯する。

「そうそう、茅ヶ崎リョウスケくんのことで」
「龍介だ」
「あーそっか、いやあどうも――」
「男の名前を覚えるのは苦手、なんだろう」

 ため息混じりに言葉尻を奪って続ける。幾度となく聞いた台詞。
 ヴェルナーがにやにやと気の抜けた笑みを浮かべて、分かってるじゃんか、と楽しそうに言う。
 対する桐原は胸の内で嗚呼、と嘆いた。無念、という思いが毒のように全身に回る。こうなることを、覚悟しておくべきだったのに。

 それは言うなれば、運命づけられた出会いだった。

 桐原と茅ヶ崎龍介。二人は、出会うべくして出会った仲だ。
 影を辞す人間に課される、ひとつの義務がある。影の予見士が予見した、罪に狙われる可能性がある人物の"監視"である。
 影の元メンバー(=元エージェント)へは、対象となった人物と出会えるように手筈が整えられ、一般人としての生活が始まる。対象者が罪に襲われたりした場合は、影へ報告せねばならないのだ。
 桐原の場合、その対象が茅ヶ崎龍介だった。
 ヴェルナーと再会するまで、桐原はその事実を半ば忘れかけていた。
 8年前、罪のトップである教皇が死んだことにより、組織は弱体化し、一般人が罪にピンポイントで狙われる可能性は無視できる。もう二度と影と関わり合うことはない。無邪気にも、そう信じていた。忘れたふりができていたのだ。自らの過去も、彼女のことも、こそばゆいような感情も、胸を抉るような感情も、何もかも。
 現役の影のエージェントが会いに来るということは、茅ヶ崎龍介に関しての、何らかの警告に違いない。今日、ヴェルナーと再び相見(あいまみ)えたとき、地獄に突き落とされた気分だった。
 重い心持ちのまま、浮かんだ疑問をそのまま口に出す。

「しかし……分からんな。罪の勢力は弱まったのではなかったか? 教皇は死んだはずだろう」
「ああ。8年前に、"英雄"の手によってな」
「……」

 英雄、という単語に、その場の二人が反応する。桐原と、ハンスだ。桐原の心境は苦いものだったが、ハンスは目を輝かせている。
 桐原が影を去ったあと、一度だけヴェルナーから手紙が届いた。そこに、教皇を討ったエージェントが、"英雄"と呼ばれている旨が記されていた。
 胸糞悪い。桐原はその時そう思った。
- 5/13 -

back


(C)Spur Spiegel


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -