仕事を終える頃には、薄闇がじわじわと大気を飲みこみ始めていた。コウモリが不規則な軌跡を描いて、校舎の周りを飛び交っている。外に出た途端に日中の熱の名残が肌に纏わりつき、不快感を誘う。
気の重さを感じつつ車へ向かうと、ヴェルナーは助手席のシートを目一杯倒して寝入っていた。規則正しく寝息をたてている。熟睡である。
桐原はふうと一つため息を吐いた。どこまで能天気なんだ。
「おい、出発するぞ。シートベルトを締めたまえ」
「んあ? ああ……お疲れさん」
ふあーあと犬歯を晒すほどの大欠伸をしてから、ヴェルナーが眠たそうに目をこすった。
桐原はエンジンをかけつつ、横目でヴェルナーを見る。
「……生きていたんだな」
「勝手に殺すなよ。そりゃあこっちの台詞だっての」
「……それにしても貴様、その格好は何なんだ」
「これ? かっこいいでしょ」
「格好いいかどうかはさておき……貴様も影の一員なら、極力目立たないように努力するべきなんじゃないのか」
桐原がヴェルナーの私服姿を見るのは初めてだった。よもやこんな派手な格好をして現れるとは夢にも思わなかった。
影の面々は大抵、街行く人々に紛れるような目立たない格好をする。今の時代、組織の命運を左右する最も重要なファクターは"情報"だ。目立つ格好をするほど、影のメンバーがどこにいるかという情報を敵に与えやすくなる。それはとても大きなリスクだ。
「いやあ俺の場合、地味な格好しててもきっと注目を一身に集めちゃうからね。主に女の子からの」
「……そうか。それは厄介だな」
桐原は投げやりに相槌を打つ。真面目に忠告した自分が馬鹿だったか。この男と話しているとため息が絶えない。昔そうだったように。
車をバックさせ、学校の駐車場から出る。周辺にはもう生徒の姿はない。いつも通りの帰宅の風景だ。助手席に妙な男が座っていることを除けば。
「それにしても、お前にまた会えるとは思ってなかったよ。再会できて嬉しいぜ」
「私は全く嬉しくないがな」
「ったく、相変わらず愛想のねえ野郎だなぁ」
「貴様に愛想を振り撒かなくてはならない理由が分からん」
ヴェルナーがそこでぷっと吹き出す。
「なぜそこで笑う?」
「いや、今の台詞……俺たちが初めて会った日にも同じこと言ってたぞ、お前。忘れたか?」
「……わざとだ」
正直覚えていなかったが、認めるのも癪(しゃく)な気がして、悔し紛れにそう返した。
桐原のセダンは帰路につく大勢の車に混じり、時に車線を跨ぎながらするすると進む。色とりどりのライトの波に乗る。こうして運転することに快さを感じる。隣にヴェルナーがいなければもっとよいのだが。
「お前、子供はいねーの?」
唐突な問いだった。
危うくおかしなところでブレーキをかけそうになり、すんでのところで踏みとどまる。
唐突に何を言い出すのだ、この男は。
「……独身なのに子供がいると思うかね」
質問に質問で返す。ヴェルナーが唇を尖らせる。
「ちぇー、何だよつまんねえな。30なんだから子供の一人や二人いたっていいだろ。子煩悩にでもなってたらからかってやろうと思ってたのによ」
「私に何を期待しているんだ、貴様は……。私は一生結婚はしないよ」
「は? なんでだよ。まさかまだ昔のこと引きずってんのか?」
「……」
まただ。
視界の片隅で、手招きするように、銀色が翻(ひるがえ)る。自分の名を呼ぶ、あの人の声が聞こえる。水を失った魚のように、呼吸ができなくなる。
――やめてくれ。もうその記憶にはきつく封をしたんだ。この期に及んで、栓を弛めるような真似はよしてくれ。
何も言えないでいると、ヴェルナーが呆れたように嘆息した。
「はあ……図星かよ。未練がましい奴だねえ」
違う、そういうことじゃない、と内心で反駁するが、説明するのも億劫になって、止めた。
「……そう言う貴様はどうなんだ。貴様も、もう28だろう。身は固めたのか」
「んー? 俺はねえ、8年前と同じ女(ひと)を愛し続けてるよ。未だに気持ちは受け入れてもらえてないけどね」
「……」
「一途でしょ?」
「……それこそ未練がましいと言うんじゃないのか」
今日何回目か知れないため息をつく。
ヴェルナーはまるで揺らめく炎のように掴みどころがない。この男との会話にそろそろ疲れてきた。年齢を重ねて少しは落ち着いたのでは、という桐原の淡い期待はとっくに崩れ去っていた。
黙っていてほしいのに、ヴェルナーがまた口を開く。
「つーかお前、もしかして影を辞めてから誰とも一度も付き合ってねーの?」
肯定すると、ヴェルナーが大袈裟に驚いた表情を作る。
「まじかよ……いかんなあ、それはいかんよ、錦くん。そんなことではどんどん心が老化していってしまうよ。あ、体もかな?」
「……貴様は年下なのに、どうしてそう偉そうなんだ」
「だって俺の方が経験豊富だしぃ」
ちょっと待て。
「貴様はさっき、一人の女性を愛し続けていると言わなかったか?」
「もちろん心変わりはしてないよ。でも、心と体は別物だもーん」
「男の風上にも置けんな貴様……それに大の男がもんとか言うな」
呆れを通り越して、桐原の中にヴェルナーへの怒りが沸々と湧いてきた。
ヴェルナーの女好きは昔から目に余るものがあったが、それはどうやら変化していないか、悪化しているらしい。
だらしなく笑う傍らの男を一発殴りたいという桐原の思いを乗せ、黒いセダンは自宅への道筋をひた走る。
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