思考の渦の中から、ハンス君の声が私を現実に引き戻す。

「ヴェルナーさんね、今、ちょっと寂しそうなんですよ。あなたがいないから」
「あいつが? まさか」
「本当ですよ。あの人のあんな拗ねた子供みたいな顔、初めて見ました。桐原さんが年上だから、ヴェルナーさんも甘える気持ちがあるんでしょうね」
「ヴェルに甘えられても嬉しくないな」

 そうでしょうね、と笑いが返ってくるかと思いきや、ハンス君はそうですか?、と冷ややかな声音で疑問を露にする。

「僕は羨ましいですけどね。だってヴェルナーさんと10年以上一緒にいるのに、僕はそんな顔見たことないんですよ。あなたが彼と一緒にいた時間なんて、僕のたかだか何分の一か、何十分の一かじゃないですか。それなのに僕はあなたに敵わない。どうしてですかね?」

 冷めた口ぶりの中に、ただごとではない高ぶりの気配が漂い始める。不穏なものを感じて青年の碧眼を見つめると、その奥にうっすらとした敵意さえ宿っているようにも思えた。

「ハンス君……? どうしたんだ。少し落ち着け」
「僕? はは、やだなあ、僕は落ち着いてますよ。ねえ、どうしてだと思います? 僕が悪いんでしょうか? 僕の何が悪かったんでしょうね? 僕は悶々としているのに、あなたはそれが当然のような顔をしている。その違いは何なんです? 教えて下さいよ、桐原さん」

 いつの間にか、ハンス君の声はぞっとするほどの冷酷さを帯びていた。
 反して、目には気が狂(ふ)れたような尋常ではない熱量が――しかも黒々とした熱がこもっている。室温は快適なはずなのに、こめかみに冷や汗が浮く。彼は一歩も動いていないのに、彼が放つ異様な雰囲気がこちらまで迫ってきて、圧迫感を覚えた。これが彼の本性なのではないか、という気がするとともに、この負の気に飲まれてはいけない、と自分を強く保とうとする。

「あなたが羨ましいと言ったのは本当ですよ。日本に来て、一日交代で茅ヶ崎くんを見張っているから、ヴェルナーさんの顔をめっきり見なくなってしまった。それでもあの人は別に普通だった。何ともなかった。それなのに、あなたが入院したら途端に機嫌が悪くなる。ねえ、どうしてです? 僕に何が足りないんです? 僕はどうすれば良かったんですか。ねえ、桐原さん、教えて下さいよ」

 つう、と背筋を汗が伝うのが分かった。
 私はこの、本音の読めない青年に対し、恐怖心を抱いている。ポケットに突っ込まれた手にナイフが握られているのを、脳が勝手に想像している。
 私は視線を固定したまま、視界の端にある病室の扉に意識を集めた。この怪我だらけの体では、あそこに辿り着くまでに何秒もかかるだろう。ここは個室だ。私がずたずたにされ、物言わぬ肉塊となっても、看護師の悲鳴が凶行を明らかにするまでには、何時間もかかるに違いない。
 ハンス君はずっと、唇に形だけの笑みを貼りつけている。

「どうしたんですか、桐原さん。具合でも悪いんですか」
「……いや。大丈夫だ」

 顎の冷や汗を拭い、青年の冷静さを呼び戻そうと、言葉を選びながら呼びかける。

「ハンス君。どうして、教えてくれと言われても、私には答えようがない。ヴェルはともかく、私は君のことをまだよく知らないんだ。適切な解を得るためには、適切な条件付けと適切な問いが必要だ。それは、分かるね」
「……」

 ハンス君の形式だけの笑みが引っ込み、一瞬虚ろな表情が現れる。誤ったか、とひやりとしたが、数秒後には眉や目元に穏やかさが戻ってきた。カーゴパンツから両手が引き抜かれ、もちろんそこには何も握られてはいない。ばつが悪そうに頬を掻きながら笑う様子は、年頃の普通の青年だった。私は胸を撫で下ろす。

「すみません。取り乱したみたいで」
「いや、謝ることでもない。それより、君たちは……君とヴェルナーはただの師匠と弟子ではないだろう。何かあいだに複雑な事情がありそうだが」

 この二人が初めて私の部屋に来た日に、別々の部署に所属しているという話は聞いた。そのことからして、訳ありな関係であることは自明だ。問題は、その訳の部分がハンス君にとっては不服なのではないか、と察せられるところだ。
 金髪の青年が物憂げに目を伏せる。

「そうですね。それについてはお話しする日も来る……かもしれませんね。今日のところはちょっと、お暇(いとま)してもいいですか。頭を冷やしてきた方がいいみたいなので」
「ああ……」

 私が頷くと、穏和な顔に意味深な笑みを浮かべつつ、ハンス君は足早に病室を出ていった。
 あのドイツ人の二人には何やら確執があるのだろう。ハンス君はどうも危うい。私には仔細は分からないが、彼の胸の内に抱えられた闇について、ヴェルナーは知っているのだろうか。二人の気持ちと考えに齟齬が生じていないことを願うばかりだ。
 いまだにぐっと握ったままだった拳を無理やり開くと、そこはじっとりと手汗で濡れていた。
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