* * * *

 ヴェルナーと水城先生の来訪の翌日、ハンス君が病室を訪れた。リハビリと食事を摂る以外に何もすることがなく、時間を持て余していため、私の家から本を探して取ってきてもらったのだ。
 大学生のような格好の金髪の青年は相変わらず、人は好さそうではあるが本心の読めないほほえみを湛えている。

「使い走りのようなことをさせてすまんな」
「これくらいお安い御用ですよ」
「茅ヶ崎の様子はどうだ」
「特に異状はなし、ですね」

 数冊の本を受け取りながら会話をする。気がかりなのは学校と、茅ヶ崎のことだ。文化祭前なのに担任がこんなことになって、受け持ちの生徒は皆鼻白んでいるかもしれない。それか毛ほども気に留められていないか、そのどちらかだ。
 ぱらぱらと本を検めていると、手元に注がれる突き刺さるほどの視線が嫌でも気になった。
 ベッドの傍らに立ったままのハンス君を振り仰ぐ。案の定、彼は目を細めて冷たく私を見下ろしていた。

「……何か、言いたいことがあるんじゃないのかね」
「"英雄"のことです」

 私が切り出すのを待っていたのだろう、淀みない返答は簡潔だった。

「……言ってみなさい」
「あなたはあんなことがなければ、最後まで僕に正体を教えるつもりはなかった……そうですよね?」
「……。そうだ」
「"英雄"は、尊敬を集めるのは好まないと?」
「大切な人一人守れない人間が、英雄であるはずがない」

 ひとつ息を吐く。めくっていたページを閉じ、サイドテーブルに本を重ねる。
 ハンス君も知ったのだろう。己が尊敬していると豪語していた人物の正体が、目の前にいる男だと。
 私自身は、自分が英雄だなどと、一度も思ったことはない。大切な人と引き換えに集めた称賛など、塵芥(ちりあくた)ひとつの価値さえないだろうから。さらに言えば、英雄という呼び方には皮肉の意味合いしか感じられなかった。ハンス君と初めて顔を合わせた夜、英雄を尊敬している、との話を聞き、胸中に生まれたのはただただ苦々しい思いのみだった。
 しかしながら、今は若干の心境の変化がある。
 英雄であるはずがない、という台詞を吐きつつも、心はあまり波立ってはいない。少し前までは、英雄とルネの話題がちらつく度に、激情が迸ってしまっていたのに。現在はそれどころか、凪いだように落ち着いた気持ちの状態なのだ。
 彼女に、きちんとお別れできたからだろうか。背にラベルの付いた本を書架から取り出してくるように、ルネのことを、自分とは切り離したものとして考えられていることに自分で驚く。それが忘却でないことを信じたい。
 今ここに至り、ひしひしと感じるのは水城先生への恩の感情だ。彼女が心を砕いてくれなければ、自分の心をこの状態まで持ってこられることはなかっただろう。そして、ほんの0.何パーセントかだが、ヴェルナーの力添えも無視はできない。本当に、ほんの0.何パーセントにせよ。
 正体を知って幻滅したかね、と問うと、自分でもよく分かりません、との答えが返る。
 ヴェルナーさんも人が悪いんですよ、とカーゴパンツのポケットに手を突っ込んだハンス君が続けた。唇は弓形になっているが、双眸はまったく笑っていない。

「全部知っていたくせに、桐原さんに接触するのが決まった段階になってからですよ、あの人が英雄の名前を持ち出してきたのは。その時なんて言ったと思います? "英雄のことは錦が知っているから、会ったら訊いてみろ"ですよ。それまで何年も、英雄の見聞を匂わせることすらなかったのに。笑っちゃいますよね」
「それは、おそらく――」
「分かってますよ。桐原さんの心情を慮ってのことでしょう。英雄のことを訊かれてあなたがどう出るか、その態度と対応を窺おうとしてたんでしょうね。勝手に自分の口から話すことはせず」

 そう言われて、今さらながらはた、と思い当たる。奴が――ヴェルナーが全てを知っていてなお、ハンス君に問いかけをさせた理由を。

 ――桐原さんは、"英雄"のことをご存じなんですよね。
 ――ヴェルナーさんから、桐原さんが"英雄"について知っていると伺って。

 あれは、ルネとの別れから8年を経た私の気持ちがどういう状態にあるのかを知るための、ヴェルナーなりの手探りだったのではなかろうか。ヴェルナー自身の口からルネと英雄についてどう思ってる、などと問われれば、私は素直な答えなど返してやらなかったに違いない。だからあれは私を苦しめるための行為というわけではなく、本音を引き出すために選択した行動だった――そんな可能性も考えられないだろうか。
 だとしたら、奴のあの言葉は。

 ――お前は目を背けてるだけだ。ただ逃げたいだけだろ。生きることから。
 ――俺ァ軽蔑するね。死ねないから生きてるってだけの奴をよ。

 私を貶めるのが目的ではなく、発破をかけるのが目的だったとしたら。
 そこまで考えて、頭を振る。あいつが私に対して、そこまで殊勝な振る舞いをするとは思えない。
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