認めてしまうと、途端に不安になった。彼女はさっき、"あの人たちと先生がどういう関係かは分からない"と言っていた。私が何者か、彼らは何者か、本当のところはまだ知らないだろう。自分の正体を知ったら、さすがに心が挫けてしまうのではないか。
 黒目がちの澄んだ目を覗きこむ。

「私は……あなたとは違う世界で生きてきました。あなたの常識と私の常識は違う。再びあなたを危険な目に遭わせるかもしれない。それでも、いいんですか。私で……いいんですか」

 それは彼女の好意を受け入れたも同然の言葉だったが、同時に弱々しい言葉でもあった。
 不意に彼女がぐいと身を寄せてくる。包帯で雁字絡めになった私は、咄嗟に身動きができない。花の香りによく似た芳香が、ふわりと鼻先をくすぐった。彼女の腕が首に回され、閉じられた瞼が近づいてくるのを知覚した、その瞬間。
 自分の口に、柔らかな唇が重ねられた。
 全身が強張った。あ、と思う暇もなく、軽く触れ合っただけの唇はすぐに離れていく。彼女を見る自分は唖然としていただろう。
 水城先生の顔全体がみるみるうちに朱に染まる。そこに、大輪の笑顔が咲いた。

「あなたが、いいんです」

 一字一句、噛み締めるような肯定だった。
 思いを遂げたことを悟り、だんだんと自分の頬も熱くなってくる。しどろもどろになりながら、取り繕うような台詞を探す。

「……私は――私の手は、汚れているんです……。こんな汚れた手では、あなたを抱きしめることすら、できないんですよ……」

 受け入れておいて今さら何を言っているのだ、という自覚はあった。
 うろたえる私に対して水城先生は、明るい色の秋桜に似た晴れやかな笑みを浮かべる。

「……先生が私を抱きしめることができないなら」
「……ッ」

 水城先生が今度は私を抱きしめた。甘やかな匂いが鼻腔を埋める。そうだ、人の温もりはこんなにも温かいものなのだ。そのことを、私はずっと忘れていた。
 彼女の優しさに包まれ、涙が出そうだった。きっとこれが幸せなのだろう、と考えた。

「こうやって、私が先生を抱きしめますね」

 ゼロ距離にいる水城先生が耳元で囁く。
 心が芯から震えた。目を閉じて、ずっとこのままでいたいと思った。おそるおそる、包帯を巻いていない方の手を背中に伸ばす。
 しばらくそうしているうちに、気づいてしまう。この、脇腹あたりに押しつけられている、柔らかい感触のものは――。一度自覚してしまうと、一気に体温が上がるようだった。

「……あ、あの」
「はい?」

 無邪気な声が返る。
 気の利いた言い方も思いつかず、私は直截に伝えた。

「……その、む、胸が当たって」
「あ!」

 慌てたような声が上がり、ばっと体が離れる。気まずさにお互い顔を逸らしていたが、横目でうかがうとちょこんと覗いた水城先生の耳が赤い。自分の顔もこれまでにないくらい火照っていた。この歳でこんな気持ちになろうとは。

「す、すみませんでした! 私ったらなんて大それ、いえはしたないことを……!」
「いえ……大丈夫です……」

 掌で顔を覆いつつ、水城先生の方を見やる。そこには両手を頬に当てる可憐な姿があった。
 目が合うと、恥じらいを含んだ笑みが返ってくる。自分も思わず、口元が緩んだ。

「……あの」
「はっはい! 何でしょう」
「あなたはなぜ、そんなに強い気持ちを持つことができるんですか? 何か特別な経験がおありなんですか」

 水城先生は小首を傾げ、ぱっと弾けるように笑った。

「うーん、何かって言われたら、恋の力ですかね?」
「……恋、ですか」
「そうです。えへへ」

 はにかむ彼女につられて笑う。秋風がどこからか花の香を運んでもくる。この女性は自分より、遥かに強靭なのだと改めて感じた。
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