点滴の器具を押しながら、階段では体を水城先生に支えてもらい、病院の屋上に出る。
 コンクリートが敷き詰められたそこには、端に給水塔がある他、中央付近にベンチが設えられ、四方を取り巻くフェンスに沿ってプランターが置かれていた。植わったマリーゴールドが、涼しさを含んだ秋風に揺れる。薄い色の空には、刷毛でさっと掃いたようなかすれ気味の雲がたなびいていた。私たちの他に人影はない。
 ベンチに隣り合って腰を降ろすと、もうめっきり秋ですね、と水城先生が明るく口火を切った。

「そうですね」
「まだしばらく入院は続くんですか?」
「あと一月半ほどで退院できるそうです」
「そうなんですね。でも、それだと文化祭には間に合いませんね。残念だなあ」

 文化祭。そういえばそんな行事もあるのだった。水城先生とクラスの出し物について会話をしたのが、もう遠い昔のことのように思われる。
 感慨深くフェンスの向こうに立ち並ぶ家々を眺めていたが、言うべきことがあると思い至り、彼女の方へ視線を移した。はっと向き直る水城先生と視線がかち合う。
 ほんの少しだけ唇を舐めた。

「……私を、恨んでいますか」

 え、と彼女の口から一音が漏れる。
 無意識に、固定されていない方の手をぐっと握り締めていた。話すうち、後ろめたさで知らず目線が下がっていってしまう。

「私があそこにいたばかりに、あなたに怖い思いを味わわせてしまった。取り返しのつかないことになりかけた。だから、私を――」
「恨んでなんか、いませんよ」

 否定する声は強かった。反射的に面(おもて)を上げると、水城先生のきりりとした目に惹き付けられた。そこには毅然とした光が宿っていて、その強さに圧倒されそうになる。

「あの人たちと先生がどういう関係かは分からないですけど……私が襲われそうになったのが先生のせいだとしても、先生は私を守って下さったじゃないですか。それに私、先生に"離さないで下さい"って言われたとき、一生離すもんか! って思ったんです」

 今度は、え、と自分が漏らす番だった。
 言われた言葉を噛み砕くのに時間がかかった。まじまじと彼女の顔を見つめると、じわじわとその頬が紅潮してくる。何度か口元が震え、おそらくは躊躇によってその唇がぱくぱくと開閉された後、そこから決定的な言葉が飛び出した。

「あの……私、桐原先生のことが好きです」

 好き。
 それが呪文であったかのように、その呪文で石にされてしまったかのように、私は何秒も動けなかった。何の飾りもない丸のままの言葉が、心の泉に輪を作り広がっていく。やがて波紋は怒濤となって、動揺という形で自分の心情を揺さぶった。
 水城先生の頬はほんのり色づいたままだ。そこからふっと顔を逸らし、苦々しく下唇を噛む。
 駄目だ。私は誰か特定の人を大切にはしないと、特定の人から大切にされないように生きると、そう誓ったのだ。ルネを喪って突き落とされたのと同じ苦悶を、もう誰も味わわなくていいように。いつか別れる時が来るなら、最初から深入りしない方がいい。ましてや、自分はいつこの世から唐突に消え去るか分からないのだ。彼女のように善良な人を、悲しませるようなことはしたくない。
 返答の声は震え、弱々しいものとなった。

「私は……誰かのそういう気持ちには、応えられないんです……」
「それって、以前の恋人さんのことで、ですか?」

 再び、水城先生の方を見た。胸の上で手がきつく握り合わされている。彼女の決心の固さを示すかのように。

「なぜそれをご存じで……」
「すみません。実は、桐原先生に会っていないあいだ――ヴェルナーさんから桐原先生の昔の話を聞いちゃったんです。恋人を亡くされていたんですね……それも、目の前で……」
「……」
「勝手にごめんなさい……怒りましたか?」
「いや……どうせあいつがぺらぺら喋ったんでしょう」
「ええと、それは、まあ……。桐原先生は、その方を忘れられないから、今も大切だから、他の人を好きになれないっていうのとは、違うんですよね? もしよかったら、理由を私に話してもらえませんか」

 彼女の口調は凪いでいて、どこまでも真摯だった。
 私は導かれるように、洗いざらい心の内を話した。それはほとんど告解だった。もう二度と大切な人に悲しみを背負わせたくないのだ、と釈明しているあいだ、慈悲深い神父の前で懺悔している気分になっていた。
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