「今日は大変でしたね」

 知ってか知らずか、青年が適切なタイミングで切り込んでくる。
 私はふるふると体の前で手を振る。

「いえ、そんな」
「困ったことがあれば、言って下さい。僕らは桐原先生の味方ですし、あなたの味方です」
「味方……」

 何回か言われたけれど、なんて非現実的な語句なんだろう。テレビや本の中でしか使わないような言葉。味方と言っているけれど、この人たちは一体何者なのか。普通の仕事をしている人には見えない。どうしてこんなにも日本語がぺらぺらなのかも不思議だ。
 桐原先生は、どういう人なんだろう。
 手術は無事に終わっただろうか。ヴェルナーさんはまだ病院にいるのだろうか。あの山羊の被り物をした人たちは何だったのだろう。すべてが、この静かな車内とひと続きだなんて到底信じられなかった。線状に流れる車窓の外を眺めながら、私もハンスさんもしばらく何も言わなかった。沈黙はさして苦にはならなかった。
 ハンスさんがぽつりと呟いたのは、私の住むマンションがだんだんと近づいてきた時だ。

「でも、彼が英雄だったなんて」

 彼の呟きにはどこか愕然としているような響きがあって、反射的に振り返ってしまう。

「え?」
「……いえ、こちらの話です」

 金髪碧眼の青年は、一分の隙もない完璧な笑みを浮かべ、頭を振る。何かを誤魔化すみたいに。
 マンションの駐車場に車が停められた。明日も仕事がある。これから歯を磨いて、お風呂に入って、明日の準備をして、いつものように寝なければならない。たったそれだけが、途方もなく大変なことのように感じられた。

「ハンスさんは……今日これからどうするんですか」
「タクシーでも拾って、病院に戻りますよ」
「そうですか……。あの、ありがとうございました」
「僕は特別なことはしていませんよ。とりあえず今日のことは置いておいて、ゆっくり休んで下さい」
「はい……」
「ノイをお貸ししましょうか」

 覇気のない私の顔を覗きこみ、そうハンスさんが提案してくる。え?、と訝ると、青年の足元にすり寄っていた黒猫がニァアと鳴く。お任せ下さいとでも言っているように。
 
「僕もなかなか眠れない夜とか、この子の毛並みを撫でるんです。すると、いつの間にか眠くなってくる。アニマルセラピーのようなものなんですかね。一緒に眠ったら寝付きがいいかもしれませんよ。この子は大人しいし、一晩くらいなら、大丈夫でしょうから」

 足元に目を落とすと、こちらを見上げる猫と目線が合う。暗闇でもきらりと輝く、金色の眼だ。
 膝を折ってそっと抱き上げる。温かく、柔らかい。黒猫は私の腕の中に、すっかり収まった。

「じゃあ、一晩だけ。いいですか」
「ええ、もちろんです。おやすみなさい、水城さん」
「おやすみなさい」

 歩み去る青年の背中をしばらく見つめたあと、自室に帰って就寝の準備に取りかかった。先生のスーツの上着をハンガーにかけながら、その生地の表面に指を滑らせ、無事でいて下さい、と願った。
 猫は本当に大人しかった。部屋に置いてあるものの匂いを嗅ぎ、体をすり寄せるだけで、走ったり何かを引っ掻いたりするような行儀の悪いことはせず、撫でるとすぐに喉をごろごろいわせる。人懐こく、かわいい猫だった。
 寝床に入る前、携帯の画面を点灯させて、壁紙に設定してある花の写真を見る。花びらの多い、とりどりの色をした愛らしいキク科の花。自分の誕生花の、スプレーマムだ。
 花言葉のひとつは、"逆境の中でも平気"。
 平気、平気、と心に刻みつけ、黒猫をベッドに招き入れる。

「猫ちゃん、一緒に寝ようか」

 温かく人よりもずっと小さい生き物が、布団の中に潜りこんでくる。
 その黒く艶やかな毛並みを幾度となく撫でているうち、私はいつしか眠りに落ちていた。
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