心臓が一瞬止まる。私に向けられている赤い双眸の中心は、底の知れない深淵だった。不意に背筋がぞくりとする。それの前では、何も取り繕えそうになかった。小さくこくりと首を振る。
「……はい」
「今日ので分かったと思うけど、あいつは普通の人間じゃない。あいつは、君とは別の世界に生きてる人間だ。君とは全然違う常識の中で生きてきた人間なんだ。それでも、あいつを好きでいられる?」
冷静な、冷淡ともいえるほどの問いかけだった。試されている、という気がした。
手にある缶をきゅっと両掌で包む。
怖いと思った。今までに見たことない目をして、聞いたことのない声を放つ桐原先生を、少しだけ怖いと感じてしまった。それは事実だ。けれど、それはその時だけのことだ。だって、彼は私を助けてくれたのだから。しかも、命がけで。
自分の、桐原先生が好きだという好意の形は、どこも変容してはいない。
だから私は、迫力のあるヴェルナーさんの赤い瞳を、真っ向から見返して答える。
「はい」
気持ち強く発声すると、彼がそれに応えてにやっと笑う。
「いい返事だ。あいつは一筋縄ではいかないぜ。それでもいいのかい」
「もちろんです」
「それならさ、君の想いがあいつに届くように、俺もできるだけのことは協力するよ」
「……え」
思いがけない申し出に、目をぱちくりさせてしまう。あの先生のことを下の名前で呼ぶなんて、よっぽどヴェルナーさんは彼と仲がいいに違いない。そんな人からのありがたい提案を、断る理由などなかった。
けれど、以前二言三言言葉を交わしたとはいえ、私たちはほとんど初対面なのだ。そんな人間に対して、どうしてそんな配慮をしてくれるのか理解できなかった。
「どうしてそんな……ヴェルナーさんは私のこと、まだほとんど知らないんじゃ……」
「俺は恋する女の子の味方だからね。理由なんて要らないさ。それに、あいつの子供も見てみたいしね」
ヴェルナーさんは芝居がかった口ぶりで言うと、ばちんと気障っぽくウインクした。まるでステージ上にいる舞台俳優のように。
何と返すべきものか、と迷いつつ黙っていると、
「それより、手術が長引きそうだから君は帰った方がいいよ。手術が終わっても、どうせしばらく意識が戻らないだろうし。連絡先を教えてくれれば、意識が戻ったら伝えるからさ。家までハンスに送らせるよ」
反論しようと半ば口を開けるも、ここにいるべき理由が見つからず、言葉を飲み込む。心情的には先生の側についていたいのはやまやまだったが、私がここにいたところで何にもならない。時計を見ると、もう22時を回っていた。それに手術が終わったところで、すぐには面会できないに違いない。
「……そう、ですね。ここにいても何もできないし。分かりました、帰ります」
私は素直に立ち上がって、ヴェルナーさんにぺこりと頭を下げた。赤髪の男性はうん、気をつけて、と言いながらほほえみ、暗がりに向かって声を放つ。
「じゃあハンス、送ってあげて」
「了解です」
廊下の闇の中から、すうっと青年と猫が現れた。
じゃあ行きましょうか、という青年に従って外に出る。まだ秋の初めだし、そこまで空気は冷えているわけではないけれど、風が妙に身に染みた。病院の前の道路は、この時間でも車がそれなりに行き交っていて、それがどこか遠い景色に見えた。
病院のロータリーに停められていたのは、私の愛車の水色の軽だった。
「あ、私の車……」
「車から降りるときは、鍵をかけた方がいいですよ」
年下であろう青年に言われると気恥ずかしかった。
ハンスさんは自然な動作で運転席に乗る。それを特段おかしく思わないくらいには、ぼんやりと頭に霧がかかっていた。まるで、磨りガラスを通して世界を見ているようだった。今夜は、色んなことがありすぎた。
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