* * * *

 桐原先生に促され、建物の外まで走り抜けた私は、草むらの中で混乱を来していた。
 ――どうしよう、ここから離れた方がいいのかな……でも、先生のこと気になるし……。あ、そうだ! 救急車と警察に連絡……! 救急車って11何番だっけ……!
 スカートのポケットに携帯を入れていてよかった。先生のスーツの上着をかき合わせ、ダイヤルしようとしたところで、いきなりすぽんと携帯が視界から消えた。

「えっ」
「呼ばなくていいですよ」

 至近距離から、男性の声がした。
 ぎょっとして振り向くとそこに、欧米人とおぼしき金髪碧眼の青年が微笑みをたたえて立っていた。その手で私の携帯をもてあそんでいる。彼が私の頭の上から手を伸ばし、携帯を後ろから取り上げたらしい。
 ぞぞっと背中が粟立って、反射的に一歩退く。さっきの人たちの仲間だろうか。

「そんなに身構えなくて大丈夫ですよ。僕は桐原さんの味方ですから」

 そう、流暢な日本語で言う。先生の名前が彼の口から出たことに、いくらか安心して緊張を解いた。

「水城麗衣さん、ですよね。あなたも、一緒に車に乗って下さい。じきに桐原さんとヴェルナーさんも来ると思うので」

 青年は携帯を私に手渡しながら、後方を指で示した。砂利道に、後部が黒塗りになったバンが停まっている。後ろの扉は開いていた。
 ううん、見るからに怪しい……。運転席に乗りこんだ青年に続き、警戒しつつ渋々助手席のドアを開けると、シートの上で黒い影が蠢いた。

「うわ」
「ノイ、後ろに行っていて」

 影は黒猫だった。暗がりの中で、瞳がぎらりと光っている。青年の指示をまるで理解しているかのように、猫は車の後ろへ移動していく。その尻尾を目で追うと、車の後方に座席はなく、カーペットが敷かれた平らなスペースが車内に広がっていた。大人が優に横たわれる広さだ。
 不意に青年が口を開く。

「名乗り忘れていましたね。僕はハンスです。ハンス・リヒター。覚えなくてもいいですけど」
「ハンス……さん。えっと、私は水城麗衣です」
「知ってますよ」

 ハンスさんは軽く笑い声をあげた。そういえばさっきフルネームを呼ばれていたっけ。動転しすぎだ。頬が熱くなって、俯いて両拳を握り締める。それにしても、彼は何者なんだろう。ちらりと横目で窺うと、作り物かと思われるほど整った相貌がある。こんな美青年と知り合う機会なんて、私にはない。
 しばらく祈るような気持ちでいると、工場の出入り口から大柄な男性が出てきた。同じくらいの体格の人を抱えている――桐原先生だ。ぐったりとしていて、身動ぎひとつしない。自分の顔から血の気が引くのが分かった。気を失っているみたいだ。
 車の近くまで二人が来ると、先生のシャツが赤黒く染まっており、顔はひどく青ざめているのが見えた。まるで生気が感じられない。胸がざわざわと落ち着かなかった。
 車の平坦な床部分へ、男性が先生をそこに担ぎ込んだ。苦しげな、浅い呼吸が聞こえてくる。つらそうだ。視界が潤む。私のせいだ。私のせいで、好きな人がこんな目に。

「俺は止血の続きするから、ハンス、運転頼むわ」
「了解です」

 男性が後部から車に乗り込んできて言うのへ、ハンスさんが返事をする。長身の男性は目につく赤毛だった。そこで気づく。この人とは、何ヵ月か前に一度会ったことがあると。先生を下の名前で呼んでいた、おそらくは、桐原先生の昔からの知り合い。
 ばん、とドアが閉じるのと同時に、車がぶるりと身震いして発進する。
 私は後ろに向かって、震える声を張った。

「あのっ、救急車とか、呼ばなくていいんですか。あ、それに警察! あの人たち、銃を持ってました! 警察に言わなきゃ――」
「お嬢さん」

 てきぱきと先生の傷口に包帯を巻き、手元を血まみれにした赤い髪の男性が、落ち着き払った声音で私の話を遮る。

「ちと静かにしてくれねェかな。君より俺たちの方が慣れてるんだわ、こういうの」
「今は騒がず僕たちに従って下さい、いいですね?」

 ハンドルを握るハンスさんからも、淡々とした言葉が向けられる。

「は、い……」

 穏やかながら有無を言わせない調子に、私は小さく首肯せざるを得なかった。
 項垂れて前方に顔を戻そうとした、その瞬間。先生の口元がわなないて、う、と苦しげな呻きが漏れた。
 はっと注視する。薄目が開く。先生の手が弱々しく伸び、傍らで手当てをしている男性の腕を掴んだ。

「……ヴェル? ここ、は……」
「車の中だよ。今病院に向かってる」
「水城先生、は……」
「無事だよ。怪我もない。車に一緒に乗ってくれてる。だから安心して寝てろ」
「そうか。良かった……」

 桐原先生はまた目を瞑り、糸が切れるように、またまどろみへと落ちていった。
 私を気遣っている。自分自身じゃなく。こんな状況と状態でも他人を想う彼の振るまいに、ぎゅっと胸が苦しくなり、また涙がこみ上げてきた。
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