夜からは仕事だと言っていたし、てっきりもう帰っているだろうと思ったローくんは、予想に反してまだ台所にいて。
思わずまだいたんだ、とこぼせば、じとっとした目を向けられた。


「帰ったほうがよかったならそう言え」

『や、違うよ、夜から仕事だって言ってたから…あ、うちのベッドでよければもう一回寝ててくれていいよ?』

「…いらねェよ」

『そう?』


言いながら、私はベッドに腰かけてクセのようにサイドテーブルのうえの携帯を手に取りスリープを解く。


『あれ…?』


内容を確認した覚えはないのに、着信の知らせもメールの知らせも消えている。どうしてだろうと眉をひそめる私に、ローくんが悪い、と声をかけた。


『え、悪いって、』

「言い訳でしかねェが、魔が差した。…見たんだ。おまえの携帯」

『えっ…』


手にした携帯をそっとテーブルに戻した。
人の携帯を勝手に見るなんて考えられない。そんな怒りよりも、あの人からの連絡をお兄ちゃんに見られて気まずい。そんな困惑が胸を占める。


「…おまえ、アイツを無視してんのか」

『……』

「…連絡よこせってメールばかりだった」

『っ、うん…電話もメールも、返してないの…』


ローくんは携帯を勝手に見た罪悪感でもあるのか、こちらに来る気配を見せなかった。私は私で、頭のなかがぐるぐるして顔も上げられずにベッドに座って膝小僧を見つめるばかり。
さっきまであんなに朗らかな気持ちだったのに、今はひどく澱んでいて、苦しい。
…もう、どうせ苦しいのなら、お兄ちゃんに話してしまうのもいいかも知れない。お兄ちゃんはもう私とあの人の関係に気付いているし、私には他に話せる人もいないのだから、このまま。


『ローくん…』

「…何だ」

『…前にね、ご飯に連れてってくれたときのこと、覚えてる…?』

「前? 先週のことか? …いや、飲み会した次の日のことだな」

『そう、その日のこと…』


話し出しただけで、涙が滲んでくる。あの日の光景を思い出すと、胸がじくじく痛むんだ。


『あの日…あの人…ドフィさんが、女の人と一緒にいるのを、見てしまって…』

「…あのとき、か…」

『ん…私、ドフィさんに他にも女の人がたくさんいるのは知ってたし、だ、抱いてもらったからって、恋人になれたわけじゃないのはわかってたし…遊びで付き合ってくれてるだけだなんてことにも、気付いてたんだよ、ちゃんと…』


自分で言ってみて、その惨めさを思い知る。
最初から全部見えていて、それでも差し出された手を掴んだのは私なんだ。

違う人の匂いをまとって会いに来られても、真っ赤なキスマークを付けて会いに来られても、私、そんなことじゃ怒らないわって余裕ぶって、何も言わないで。
私以外の存在には目をつぶってずっと誤魔化して…あの日から、それがもうできなくなった。


『連絡ね、くれるの、嬉しいの…けど、けど…! 今、会ったりしたら…話したり、したら…絶対泣いてしまう…! そんなところ、見せたくないっ…!!』


膝をかかえて咽び泣いた。部屋着のスウェットがぬるく濡れていく。


『私もう、どうしたらいいのか、わからなくて…!』

「…名前」


ローくんの声に何とか顔を上げて台所のほうへ目をやると、ローくんはイスから立ち上がってじっとこちらを見ていた。台所の窓からの日差しが少し逆光になって、紺色の瞳が仄暗く煌めく。


「おれは、名前のことが好きだ」

『っ、え…』


思いがけない言葉に、丸くした目から涙がぽろりと落ちた。
ローくんが、私のことを、好き?


「昔からずっとだ。ひとりの女にここまで一途でいられるなんてな。正直おれが一番驚いてるよ」

『ロー、くん…』


真摯な目から視線が外せない。
昔からって、お兄ちゃんはずっと、お兄ちゃんじゃなかったの。


「おれはおまえだけを好きでいてやれる。よそ見なんて頼まれてもしてやらねえ。おまえの嫌がることは絶対しねェし苦しめることもしねェ。おまえが欲しがるものはすべて与えてやるし、望むことはすべて叶えてやる」


一歩たりとも近付いて来てはいないのに、なぜか異様なほど圧迫感があって。
泣いていたせいもあるんだろうけれど、私は浅い息を繰り返していた。


「名前、苦しいなら選べ。おれのことを。つらいなら捨てろ。アイツのことを」


ローくんを選べば、苦しまなくて済むのか。
あの人を捨てれば、つらくなくなるのか。


「名前」

『…ローくん…私…』


私、もう救われたいよ。



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