美しいとだけ思った。今も彼の中で渦巻いているであろう感情を彼は次々に吐き出す。同じだった。二人は似ていた。僕と違って変にこだわらないところだけは。
 彼は人とは違う世界を持っていて、またそれをひけらかすこともなかった。一度だけ訊ねたことがある。画家にならないのかと。彼が、そんな簡単なことじゃないのだと言って笑ったので僕はそれ以上の言及はしなかった。能ある鷹は、そんな言葉を反芻しながら僕は彼の絵を眺めていた。

 彼を絵嶋裕斗という人間として認識したとき、そこでも彼は絵を描いていたと記憶している。スケッチブックにざかざかと鉛筆を滑らせる姿に向かって何か話そうとする者はいなかった。どこか、触れてはならない世界だと誰もが感じとっていたのかもしれない。彼は絵を描き続けた。放課後、美術室の一角を借りてキャンバスに向かう彼を見つけた。聞いたことがある。まだ部活にも入っていないのに、と先輩に煙たがられているらしいということを。
 後日、彼の作業場は放課後の教室に変わった。クラスの誰もが帰る準備をする中で彼は一人絵の具を広げている。僕はそれを見ていた。帰ろう、と言われて、先に帰っていいよ、と、ここでそう返さなければ僕はこうまで彼と深く関わることはなかっただろう。
 僕は教室にとどまった。彼は道具を広げただけで何か始める様子がなかった。どうやら僕がいなくなるのを待っているらしかった。お気に入りの文庫を広げるが視線が滑る。僕は彼を見ていた。彼も僕を見ていた。描かないの、と思わず口にする。
「なんでいるの」
 冷たい口調だった。それは僕の自由だ。僕は本に読み入るふりをしてやり過ごそうとした。彼は諦めたのか絵の具を手に取った。かと思うと、手提げにそれをしまってしまう。そんなに見られたくないのかと僕は慌てて本を閉じた。
「ごめん、帰る」
 そこまでして彼の邪魔をするつもりはない。無理に触れる必要はなかった。僕が鞄を肩にかける間に彼が何をしていたのか覚えていない。僕が教室を出たとき、彼が同じ装いで後ろにいたことに驚いた。
 職員室に鍵を返しに行く間、僕たちは無言を貫いた。彼が指差した場所に教室の鍵をひっかけて廊下を引き返す。言葉に詰まった。あのさ、と無理に沈黙を破った僕を彼の目が捉えた。ここで僕は彼の前髪が片方だけ長いことを知った。言葉は続かない。しばらくこちらを見ていた彼も僕への興味をなくした様子で目線を正面へ戻した。僕たちは靴箱に着くまで何も話さなかった。
「靴」
 彼がそう言うので僕はたった今足をはめた自分の靴を見下ろす。入学祝いに買ってもらったものだ。どうしたのかと訊くと、いいデザインだと言われた。そういうのが好きなんだと。
 僕たちは校門を出るまで二、三、会話を交わした。取り留めもないことだったと思う。彼と反対方向に歩き出したとき、背中に「ばいばい」と声が飛んできたことが、そんな些細さがなぜか嬉しかった。


全部のはじまり

   
BACK
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -