『次郎は右目を特に大切にしなさいね』
ゲームは一日一時間まで。
テレビを見る場所は壁際のソファ。
母親の言葉といくつかの約束は、
ミント味の歯磨き粉や毎朝の牛乳のように俺の日常に溶け込んだ。
遠くをたくさん見るようにと始めたサッカーも大好きになった。
そんな日常が、あと数時間でまた一つ終わり、日付を変えてまた繰り返される。
夕照りが終わり、たちどころに濃紫の広がった空。
こぼれた混色のビーズのような街明かりと、
のぼったばかりの星が、見える世界に満ちている。
丘陵地の上にある展望広場よりも一段低い、
長い階段の途中にある広い踊り場。
学校があるような日は、
展望広場へ上がる人通りもない。
一脚だけ置かれたベンチの上に、かつてはランドセルを、今は学校指定の鞄を枕に置いて、仰向いた。

  ***

 展望広場からせり出したフェンスの他に見えるものは空と、低い景色だけだ。
最近は部活が遅くまであるから、見える空の色も濃い。
この空の下のどこかにいる名前が、それとわからなくても俺の目に映っているかもしれない。
そう思うと、他人みたいな紫の空すら愛おしくなる。
彼女は今頃、湯気のたつ夕食のテーブルについているかもしれない。
湯につかって、好きな歌を小声で歌っているかもしれない。
今日出された数学の宿題を、友達と電話しながら解いているかもしれない。
想像はできても手の届かない彼女の日常を想いながら、
誰の気配もないことを確かめて、眼帯を外した。
汗を拭ききれていなかったようで、
前髪をかき分けて右目に流れ込んだ空気が一瞬冷たく瞼を刺す。
左目と同じように右目に射し込んだ光が、神経回路のどこで途絶えてしまうのかはわからない。
それでも、彼女が翻した手鏡の光などが、弱く弱くなっても空に反射しているなら、
俺は強欲にも、その光を両目で掴みたいと思うのだ。
そうして、およそ一日に訪れる何度かの休み時間を足し合わせたのと同じくらいの間、
遠い星のどれかを眺めることで、
休み時間は遠くを見ること、という約束も守ったことにしている。
それから、彼女のささやかな日常を知りたいと、
願いが届く前に消えてしまうような一番遠い星に願うのだ。

  ***

 晴れた日が続いて、夕方の眩しさも変わらない。
汗を吸って重くなったユニフォームの入った鞄を投げ出したくなりながら、
今日も階段を上った。
コンクリートの段を擦って音をたてるのは、俺の靴底だけだ。
だから思いもしなかった。
この階段の上の踊り場、いつもの日常の一角に、俺とは別の誰かがいるなんて。
ベンチに沿って横たえられた、俺の制服と同じ色。
そこに浮かぶ、俺にはない体の陰影。
「……名前?」
そう呼ぶと、彼女は身を浮かせてこちらを見た。
「びっくりした……佐久間くん」
彼女はまだ丸い目を瞬きながらも、ベンチを半分あけてくれた。
どうしてここに、と、二人ともきっと同じことを考えている。
鳥が一声鳴いた。
「よく、ここに来るのか?」
「うん……落ち着いて何かしたい時とか。
 そういう時、カフェ入ったりする子もいるけど、人の話に気が散っちゃったりするから」
喧騒から離れているから、うすく開いた唇から零れたくらいの声も澄んで聞こえる。
「俺も同じだ」
「じゃあ、今日は私が長くいすぎたんだね。
 いつもは、明るいうちに帰ってるから」
人もいない、コンビニもない、携帯電話の電波だって風の日には届かないような場所。
俺はここで、眼帯を外して名前のことを考える他にはすることがない。
退屈そうに爪先を揺らす彼女は、ベンチの上で、何をして過ごすのだろう。
寝そべっていた彼女の額からは前髪が滑り落ちて、教室では見えない輪郭が露わだった。
部屋に敷いたラグの上、ぬいぐるみと分け合ったベッドの上、
キッチンの匂いが届くソファの上でなら、当たり前の彼女の姿なのかもしれない。
たとえば、縁日の屋台で眺めていたガラス細工が、飴細工であることに気付いてしまった時のような、
喉が鳴る感情が先程から沸き立っている。
今ならこの綺麗なものを、食べられる。

  ***

 「佐久間くんの邪魔しないから、私もここにいていい?」
不意に彼女が呟いた。
暮れ方の目にしては大げさな強さの光を湛えた目が、
俺がそちらを向いた瞬間にそらされた。
「泣いていたのか?嫌なことでもあったのか?」
叶わないことがあるのか。
白い手の甲で目元を拭って、
「佐久間くんも、あるでしょ……
 人のいないところで、誰にも見られないでいたい時って」
少し無理に押し付けられたその言葉を、わかってやれないはずがない。
俺だって、誰の目にもつかない場所で、
沈黙した種にいつまでも水をかけるように右目を光に当てるのだから。
「この辺り、街灯とか少ないだろ。
 もう少し暗くなったら、星がよく見えるんだ」
なるべく明るくそう言うと、
「そうなんだ。暗くなるまでいたこと、ないな」
と、ためらいがちな答えが返ってきた。
今日のぼる星は、全て名前の願いに譲ろう。
俺の願いは、宙へ投げるまでもなく叶いそうだから。

  ***

 冷たい後頭部の髪を押し分け、眼帯に指をかけながら、
「本当に、俺の邪魔をしないんだな?」
と訊いた。
名前が涙のまだ滲む目を瞬きながらこちらを向いた。
「俺はいつも、ここでこうしてるんだ」
右目へ滑り込む空気。見えない光の温かさ。
驚いた彼女が夕方の空気を飲み込んで、息を止めた。
「誰にも気にされたくないから、ここに来るんだ。
 だから名前も、気に掛けるな。
 俺にとっては、これが当たり前なんだから」
「ごめん……誰かのそういうところって、
 どういう態度でいればいいかわからなくて。
 やっぱり、いない方がいいよね、帰ろうかな」
申し訳なさそうに伏せられた瞼の上方に向けて手をのばして、
夜の色をした前髪を除けて剥き出しにした額は、
冷たい夜にうかぶささやかな星みたいに温かい。
俺の片顔から遠慮がちに目線を外した彼女が腰を浮かせた。
逃げることなんてないのに。
その頬に手を滑らせて、
「気をつかわないで、普通に見ていればいいから」
と、精一杯優しく強いた。
気を遣われたくないのではなくて、受け入れてほしい。
満ちた空気と同じように、右目に口付けろとまでは言わないから。
好きという感情は難しい。
「俺は名前の特別になりたいけど、
 名前の日常でありたいんだ」
手のひらにとらわれた柔らかい頬が震える。
夜がくるように遅く瞼が上げられて、
彼女が俺を視界におさめた。
「ありがとうな……名前がここにいる理由も、教えてくれないか」
今度は名前が、俺を日常を迎え入れる番だ。


遠い銀河
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