その光景はにわかに信じられなかった。
すっかり陽が昇りきった午前十時、グリフィンドール寮はしんと静まり返っていた。生は授業に出ている時間だから、今寮棟に誰かいるとしたら屋敷しもべ妖精くらいだろう。私達の見ていない間に掃除や洗濯をしてくれるという彼らはひどくシャイらしく、塔を上る私の足音を聞いて姿を消してしまうのだろうけれど。
石造りの塔は足音が響く。窓が少ないから影が多くて、小さな窓から差し込む光の白さと影のコントラストに目がくらくらする。下腹部はひどく痛く、階段を上る足は重かった。この塔──に限らずホグワーツには階段が多過ぎる。エレベーターがないのはデザイン的に仕方ないとして、魔法の力でエスカレーターみたいに動く階段があってもいいんじゃないかと思う。だけどホグワーツの階段たちは気まぐれに移動して生徒を迷わせるくせに、生徒の便利には動いてくれない。魔法界って便利なようで妙なところが徹底的にアナログだ。普段はそういうのも好きだけど、体調不良の時は別。
寝室までひとりで戻れるとリリーには言ったけれど、本当は付いて来てもらった方がよかったかもしれない。でも次の授業はリリーの好きな『闇の魔術に対する防衛術』の時間だからサボらせたくなかったのだ。大丈夫だよと笑えば、リリーはきれいな眉を心配そうに顰めながらも、「気をつけてね。お昼には何か持って行くから」と言ってくれた。さすがは個人を尊重する国の人だなあ、と思う。この国に来て感心することの一つだ。
とはいえ、ずしんずしんと響くように痛いお腹に、この階段はきつい。踊り場で立ち止まって私はふうと息をついた。毎月のこととはいえ今月のは特にしんどい。
おんなのこの体が、疎ましくなる。
「「……もういやだ、こんなからだ」」
思わず零れ落ちてしまった泣き事が、誰かの声とぴったり重なった。弱々しくて今にも泣きそうな湿度を持った二つの声。一つは当然私のもので、もう一つは。
この塔は窓が少なくて影が多い。そんな暗がりの一つに、蹲る、もの。ものじゃない、誰か、だ。
塔に一人きりだと思っていた私は当然びっくりして立ち竦む。そして息を呑んだ。目に飛び込んで来た光景が、一瞬本当とは思えなくて──思いたくなくて。
「え……っ、リー、マス…?」
それはまさに「ボロ雑巾」といった表現がぴったりの姿だった。蹲っていたのは同じ寮で同期のリーマス・ルーピンで、彼は文字通りボロボロだった。ドロドロに汚れてボロボロに破れたシーツだかカーテンだかのようなもの(それがローブだとは思いたくない)を頭から被って巻き付けた姿で、いつもは柔らかそうな明るい色の髪も煤けたみたいに汚れている。そのうえ彼は怪我をしていた。ひどく。シーツだかカーテンだか原型を留めない布にははっきりと血が滲んでいたし、私を振り仰ぐ怯えた顔にもいくつもの切り傷や擦り傷が見える。こんなところで蹲っているところを見ると、見えない部分はもっと重症なのかもしれない。何より血の匂いがした。
「リーマス!」
「っ、近付かないでサクラ!」
抱えていた教科書の束を落として駆け寄ろうとした私を、リーマスが鋭い声で制止した。明らかな拒絶。
リーマスと私は同じ寮で同じ学年で、毎日共同生活をしている仲間で、それなりに仲がいい方だと思っていた私はちょっとショックを受けて動きを止めてしまった。リーマスはいつも穏やかで、こんなふうに強い拒絶の言葉を発する事はない。ジェームズとシリウスの過ぎた悪戯を止める時も彼はもっと穏やかだ。
ショックが顔に出てしまっていたんだろう、リーマスは足を止めた私を見てはっとしたように口を噤んだ。困ってるのが分かる。数秒の沈黙の後、再び口を開いたリーマスはすっかりいつもの口調に戻っていた。
「…ええと、ごめん、サクラ。びっくりして。誰もいないと思ったから」
「…うん。私も、誰もいないと思ってたから…」
「こんな時間に、どうしたの? 具合が悪いの?」
今授業中だろう?と、リーマスは自分の事を棚に上げて心配そうな顔で私を見た。
「……生理痛が、酷くて」
なんとなく誤魔化せなくて本当の事を言うと、リーマスはぽかんとした後赤くなって「ごめん」と言う。
なんでそんなに普通なんだろう。
「じゃあ早く部屋に戻って寝た方がいいね」
「……リーマスは」
「僕は…うん、もう少ししたら戻るよ。僕も少し体調が悪くて。びっくりさせてごめん。でも大丈夫」
……『少し』?
くらくらした。生理中はいつも貧血気味になるけどこれはそのせいじゃない。そうじゃなくてええと…。
回らない頭でいろんな事を必死で考える。ここは個人主義の国。リーマスの態度は明らかに触れてくれるなと言っている。聞かずに流してあげるのがスマートなやり方なんだろう。でも、でも…。
「いやいやいやいややっぱり無理」
「サクラ?」
私は蹲るリーマスの前に崩れるように膝をついた。
「え、サクラ、大丈夫? そんなに痛いの? マダム・ポンフリーの所に行った方が……えっと、僕、今連れて行ってあげられなくて悪いんだけど…」
「いやいやいやいやいや」
個人主義の国であると同時にレディファーストの国でもあったんでした、ここは。すごい。故郷日本の小学校時代の同級生男子達を思い出して私は遠い目になった。これに慣れちゃ駄目だ、帰国してからやっていけなくなってしまう。
「そうじゃなくて!」
「サクラ?」
「そうじゃなくてリーマス! マダムのとこに行く必要があるのは貴方だよね? 人の心配してる場合じゃないよねっていうか貴方こそ大丈夫なのどんな怪我してるの一体どうしたのリーマス!!!!!」
「えっサクラ……っ、ちょ、ええええっ!?」
リーマスがらしくない悲鳴を上げる。理由は私がリーマスを抱き上げようとしたからだ。
「待ってサクラ、無理だよ! 危ないから」
「だってリーマス立てないでしょ? 暴れないで黙って担がれて!」
「だ、大丈夫だから」
「大丈夫じゃない! どう見ても大丈夫じゃないのに大丈夫とか言わない!」
「や、でもサクラ」
「でもじゃない!」
私は怒鳴った。怒鳴るってあまり私のキャラじゃない。リーマスがびっくりしてるのが分かった。でも怒らなきゃいけない時ってあると思うの。今とか今とか今とか。
だけどいくらリーマスが痩せている(ガリガリに!)とはいえやはり男の子を持ち上げるのは至難の技で。リーマスの薄い背中に腕を回して、薄い胸に顔をくっつけるようにして力を込めるけど、彼はなかなか持ち上がってはくれなかった。
「サクラ…無理だって」
困りきったリーマスの声が頭のすぐ上から聞こえる。リーマスの声は好きだな、と思う。
声が好きなんて思うのはその持ち主も好きだからだ。すごくすごく仲良しという訳ではなくても私は彼を結構好いていて、この異国でできた仲間だと思っていて、その彼がこんなに、一人で立てない程に傷ついてしかもそれを隠そうとしているのがとても嫌だった。
「ワオ、サクラ、熱烈なハグだね!」
「あー…リーマス、俺達お邪魔だったか?」
新たな声が飛び込んで来たのはその時だ。誰の声かはすぐに分かって、私はほとんど涙目で彼らを振り返った。
ジェームズ・ポッターとシリウス・ブラックの二人が呆れたような、面白がってるような顔で塔を登ってきたところだった。後ろにピーター・ぺティグリューの姿も見える。
「お邪魔じゃないしハグじゃないから助けて!」
必死な私を見て眼鏡の奥の目を丸くしたジェームズが、
「あの冷静沈着なサクラ嬢が僕らに助けを求めた!? 空耳かな」
大袈裟に驚くのに対し、シリウスは肩を竦めて
「それだけ必死なんだろ」
と言って私からリーマスをひょいと奪い去っていった。いとも簡単に。シリウスに肩を支えられて立ち上がったリーマスが溜め息をついて「見つかっちゃった」と眉を下げる。
「お前な…」
「やれやれリーマス、君の強情は称賛に値するね! でも君がいないのに僕らが平気で授業を受けていられるとでも思うのかい? ちょっと読みが甘いんじゃないかな」
「リ、リーマス、大丈夫?」
呆れたように眉を寄せるシリウス、おどけた様子ででも優しく笑うジェームズ、少しだけ怯えたように尋ねるピーター。彼らはボロ雑巾みたいなリーマスを見てもちっとも驚いていなかった。むしろリーマスを見つけてほっとしているみたいに見えた。
……なんだ。彼らはリーマスの『訳』を知っているんだな。
私にはとても分からない、リーマスがボロボロに怪我してこんな所に蹲っている理由、少なくとも彼らは知っている。
少し安心した。よかった。
「ごめん」
ひっそりと苦笑したリーマスが謝っている。
「サクラも、ごめんね。ありがとう」
「…何もしてないけど…」
ぼんやりと答えた私に、明るく「何言ってるんだい?」と声をかけたのはジェームズだ。
「僕からも言うよ、ありがとう!」
リーマスをジェームズに預けたシリウスが、突然「ん」としゃがんで私に背中を向けて来た。
「えっ、何?」
「お前も具合悪いんだろ。マダムんとこ連れてくから乗れ」
「えっやだ!」
「は? なんでだよ。いいからとっとと乗れ」
正直すごく嫌だった。生理の時に男子におんぶされるなんて。
でも結局は、リーマスに
「サクラ、諦めた方がいい。一緒に医務室行こう?」
と苦笑されてしぶしぶ従う羽目になった。そうしないとシリウス、絶対引かなそうだったし。
それが、リーマスの秘密の一端に初めて触れた日の事。
それから何の因果か、私とリーマスは何度も何度も同じようなバッティングを繰り返した。
お腹が痛くて授業を休んだ寮の談話室で、或いはまたしても階段で。医務室で隣のベッドにいる事もしばしばだった。
嫌でも気付いてしまう。ぴたりと狂い無く月の満ち欠けに支配されている私の生理周期と、リーマスがボロ雑巾になる周期が重なっている事。いつだってそれは満月の翌日。ホグワーツで魔法生物について学ぶうち、そういう症状のある生きものの名前に思い当ってしまうのは必然だった。
「……サクラ、大丈夫?」
その日も私達は仲良く医務室にいた。どこだかのクラスで何かが爆発して教室中の生徒に鱗が生えたとかでマダムがカンカンになりながら出て行った後で(ホグワーツにいるとそれくらいの事では驚かなくなる)、医務室にいるのは私と彼だけだった。ずらりと並んだベッドの、ほぼ定位置となった端の二台を並んで占領して。
自分だってボロボロのくせに、リーマスはうんうん唸っている私を気遣ってくれる。
「……うん、大丈夫」
「ごめん、大丈夫じゃないよね。えっと、かぼちゃジュース飲む? あったかいの。カフェインじゃない方がいいんだよね?」
長い医務室付き合いの結果、女の子のからだに異様に詳しくなってしまったリーマスの細やか過ぎる気遣いに私は布団の中で呻いた。
「…ほんと、今、大丈夫。それよりリーマスこそちゃんと寝てないと駄目だよ」
「僕は大丈夫だよ。怪我はもう治ったし」
彼の言う通り、マダムの治療で傷だらけだった彼の肌はきれいになっている。だけど蓄積された疲労までは拭い去る事は出来ない。「もう大丈夫」と笑うリーマスは明らかに、ずっしりと重い重い疲れと悲しみを体中に沁み込ませていた。それは年々酷くなり、滓のように彼に纏わりついている。
「…大丈夫じゃないのに大丈夫って言わないで」
布団に潜りながらモゴモゴと言う。お腹が痛い。
「そうだね、ごめん」
ちっともごめんって思ってないリーマスの声がして私は思わず舌打ちをしたくなる。イライラするのも生理のせいだ。
「…僕の怪我みたいに、サクラの痛いのも治癒魔法で治せればいいのにね」
「…………」
それだ。私は唸った。
なんでも治してしまうマダム・ポンフリーにも生理痛は治せないのだ。というか、治してはいけないものなのよ、とマダムは言う。それは自然の摂理に逆らう事だから。貴女にとっては必要な痛みなのだから、と。
正直、マジ?と思う。
日本には一発で治る鎮痛剤があるんだけどな…。骨折すら一晩で治すマダムは、「いけません、そんな不自然なもの」と言い切るのだ。ボロボロの傷を一瞬で消したり骨折を一晩で治したりするのは不自然じゃないのだろうか。
「……魔法って、何だろうね」
「え?」
思わず呟くと、リーマスが律儀に反応を返してくれる。寝てていいのに。ちょっと可笑しくなる。
「酷い怪我を一瞬で治せるのに、たかが生理痛を治せないなんて」
「うーん、そうだね」
「骨の再生すら出来るのに、ジェームズの視力とか、そういうのは治せないの」
「あはは、魔法使いも人間だからね」
「人間」
「人間としての禁忌。とか、そういうものだと思うよ」
「……」
ほんとうは。
人を死なせる魔法がある。人を苦しめたり、操る事の出来る魔法がある。
闇の帝王とか呼ばれる人(人?)の力が強くなっているらしい。最近の魔法界はどんどん暗く息苦しくなってきている。そんな時代だった。
魔法は、ほんとうは人を生き返らせたり時間の流れに干渉したりする事すらできるのかもしれない。だからこその禁忌、やってはいけない事。生理痛を治せない、治しちゃいけないっていうのも広義ではそういう事なのかもしれない。
「…いたいよう…」
ほんとに、なんて不自由なからだ。
布団の中に丸まってお腹を抱えていると、微かに衣擦れの音がして隣にリーマスが立つ気配がした。
寝てた方がいいのに、馬鹿だなあ…。
「…サクラ」
そうっと、布団の外から撫でられる感触。優しくてあったかい。
おかしいな。魔法でも治せない痛みが、撫でられる事で緩和していく気がするのは。すごく不思議。
おおかみにんげん。
日本人の私は今いち恐怖を感じない。だってぴんとこないから。それは西洋の昔話やおとぎ話の中の生きものだ。
だけど魔法界に生きる子供達にはそうではないようで、『狼人間』というのは彼等にとって身近にあるとても恐ろしいものなのだ。疫病のように。噛まれると感染する。意志を持って噛む奴等がいるらしい。この不穏な時代にあって余計に恐怖は現実味を増している。例えば、誰誰に恨みを買うとその子供が噛まれるとか。そんな物凄い事が起こり得るのだという。魔法界って先進的なんだか原始的なんだか分からないと思う。
私の友達は、リーマスは狼人間らしい。
繰り返す満月の翌日のバッティングのせいで、何年かしたら嫌でも気付いた。おまけに彼の友人達がそれを知っていて、とてつもない努力の末アニメーガスを習得して満月の夜を動物パーリーナイトにしている事も流れで分かってしまった。知りたくなかった、と私は頭を抱える。ジェームズもシリウスも異常に頭のいい絶望的な馬鹿である。もっと上手く隠して。何、動物パーリーナイトって。馬鹿すぎる。これだから男子は。
「だからね、混ぜて」
だって知ってしまったからには仕方がないでしょう。私はリーマスと近付き過ぎていた。見て見ぬふりはもう出来ない。彼がひとに戻る孤独な朝に、その傷を一番に撫でてあげる事ができる可能性を知ってしまったら。
私の提案に彼らは文字通り真っ青になった。リーマスなんてそのまま息絶えそうだった。だけど私が、自分の術を見せたらやっと落ち着いてくれた。
「ワオ、サクラ、君アニメーガスだったの!?」
「つーか何だそれ、分身の術ってやつか? ジャパニーズは全員ニンジャってマジだったんだな!」
このアホな台詞を吐いたのは学年主席と二位を常にキープしているジェームズとシリウスである。なんで彼らに成績で勝てないんだろう…と私は密かに落ち込んだ。
「アニメーガスじゃないよ。私は根性でアニメーガスになれるようなびっくり人間じゃないの。忍者でもない。これはうちの家に伝わる術で…折り紙に息を籠めるの。で、意識を移すの。うち神社で、守護にお猫さまがいて」
猫の姿で私は言う。猫になっている私の隣には、ひとがたの私が眠ってる。
「魔法じゃないの。こういうの出来る人、日本では珍しくないんだよ」
「ワーオ、シントーってやつ!? クールジャパン!」
もっともらしい嘘をつくと、ジェームズのテンションが駄々上がりになった。
「お前なんでホグワーツにいんの? 畑違いじゃねえの?」
馬鹿だと思っていたシリウスが珍しくまともな事を訊いてくる。
「だって入学案内の手紙が来たんだもん」
なんでかは分からないけれど。
魔法を学びませんか?って異国からの誘い。
私は自分の国で、ある職に就くことがもう決まっていた。生まれた時から。だからそれまでの間、外国でちょっと楽しい事をしてみてもいいかなと思ったのだ。どうせ日本のどの学校に進んでも同じだし、西洋の魔法は私の将来の仕事に役立つかもしれないと思った。とくに攻撃や防御や、治癒の魔法は。
「この姿の実態は折り紙だから噛まれても何ともないの。心配しないで」
泣きそうな顔をしているリーマスの肩に飛び乗って頬に体を摺り寄せる。猫だから出来る事だなあと思う。
「…あはは、サクラ、あったかい。かわいいね」
ぎゅうっと抱きしめられた。リーマスは猫が嫌いじゃないみたい。よかった。
日々はあっという間で、卒業もあっという間だった。
私達の代の卒業はとても慌ただしかった。魔法界はますます暗く、闇の気配が強く。お祝いムードもなくあっさりと卒業させられて、私は日本へ帰国。彼らは皆、闇の勢力と戦う騎士団に入った。お別れもちゃんと出来なかった。それ程に魔法界の情勢が乱れていたから。
ジェームズとリリーの結婚式には出たかったんだけどな…。手紙のやり取りだけは続いていて(なんとこの日本まで梟が来る!)、二人に子供が生まれた事を知る。早過ぎない?とびっくりした後で、急いだのかもしれない、と落ち込んだりして。だけどジェームズの親馬鹿っぷりとシリウスの名付け親馬鹿っぷりを教えてくれるリーマスの手紙には笑って。私も日本の玩具を送ったりした。
だけどハリーが生まれてたったの一年。ジェームズとリリーは死んでしまった。
シリウスが裏切ったのだという。シリウスがピーターを殺して、アズカバンに投獄されたと。
小さなハリーが闇の帝王を倒したとして、魔法界はお祭り騒ぎだった。でも私達には地獄の始まりだった。すべてがばらばらのめちゃくちゃになってしまった。
リーマスからの手紙は途絶えた。
すぐに行きたかったけれど、私は既に今の職に就いていてどうしてもそこを動く事が出来なかった。魔法界には束の間の安息が訪れても日本には別の危機があって、戦わなくてはいけなかったから。この仕事は何があっても放り出せない、死ぬ気で打ち込まなければ本当に死んでしまうものだった。一日でもそこを離れる訳にはいかなかったのだ。
魔法なら行ける手段があるのに、行けない。それはとてもつらい事だった。
七年かけて学んだ魔法と、生まれた時から学んできた術と。それらは仕事には大いに役立ったけれど、友達がつらい時にその肩をあたために行く事すら出来ない。
満月の度に、リーマスはたった一人で耐えているのだろうか。苦しみの果てに疲れきって迎える一人きりの朝、傷は魔法で治せてもその傷痕をそっと撫でてくれるひとはいない。信じていた友達はもういない。彼の孤独を思う。
手を。つなぎたかった。
リーマスからの手紙が復活したのは十年以上も経ってからの事。だけどその十年、私は無我夢中で仕事をしていたのでなんだかあっという間だった。こうしてあっという間に月日は流れてこのからだも朽ちてゆくのだと思う。今の仕事仲間達に囲まれていると、それも悪くないなと思うのだ。ひとの一生とはそういうものだって。
リーマスからの手紙はとてもうれしかった。
シリウスが無実だった事。成長したハリーの事。ピーターの事。ゼブルスの事。今のホグワーツの事。リーマスは一年だけホグワーツの先生を務めたらしい。それはすごく彼に合っていると思った。続けられたらよかったのに。
やわらかできれいな彼の筆跡を指でなぞる。羊皮紙に羽根ペンで書かれた手紙は懐かしく、私は和紙に墨で書いた手紙を返した。珍しいとかきれいとか、少しでも彼の心を弾ませる事ができればと思って。彼にはつらい事が多過ぎたから。ほんの少しでも。
だけどその手紙もすぐにまた途絶えがちになる。闇の帝王が復活したから。当たり前みたいに、リーマスもシリウスもそしてハリーすら戦おうとする。危険の中に進んでいく。
──サクラ、シリウスが死んだ。僕はまた彼を失ってしまった。
その報せが最後の手紙。
──サクラも気をつけて。元気で。
手紙の終わりは、昔からいつも一緒。
そう言うリーマスの笑顔すらまざまざと思い浮かべる事が出来るのに。最後だって分かった。
「主、客だよ」
清光くんが呼びに来てくれる前から、私はその来訪を知っていた。感じたから。
「ありがとう。すぐに行くね」
立ち上がると清光くんは複雑な顔をする。そんな顔しても世界一かわいいけど。
心配になるのも無理はない。この本丸──と呼ばれる私達の職場──に私的な客人が訪れるのは初めての事なのだから。
「主、あの人…」
「うん、分かってるよ。清光くんは優しいね」
先回りして言葉の続きを封じてしまうと、清光くんは「そっか」とちいさく笑った。
「主、一人で平気?」
「うん。ありがとう」
リーマスは縁側に座っていた。誰が出したかお茶とお茶菓子まである。優しいかみさまたちを思って笑ってしまうと、リーマスが私を振り返った。
「サクラ。久しぶり」
そう言って笑う。
はっきり言って彼はめちゃくちゃ老けてた。実際の年齢以上に。彼のからだを苛んできた苦痛の日々を思って胸が痛くなる。
だけどその笑顔は全然変わっていなかった。猫の姿の私を「あったかいね」って抱きしめた時の笑顔のまま。──猫にでもならなきゃ、私を抱きしめる事もできない人だった。
「うん。リーマス、えっと……老けたね?」
言葉に迷った末に発した失礼な台詞に、リーマスはぷっと吹き出した。
「変わってないね、サクラのそのデリカシーの無さ」
「あー…」
「昔、僕を抱き上げて医務室に運ぶ!って聞かなかった時の事を思い出すよ。あの時は本当に困ったなあ」
くすくすと笑うリーマスは、その胸に赤ちゃんを抱いていた。彼によく似たやさしい面差しのかわいらしい赤ちゃん。すやすやと眠るその瞳はひらいたら何色なんだろう。きっととてもきれいな色だ。
「すごいね。愛するひとができたんだね」
心からすんなりと、そう言えた。「うん」とリーマスも頷く。
「僕には一生無いと思ってた。……だけど彼女が、諦めないでくれたから」
「そっか。すごいね」
「うん。すごいって思うよ」
恋に落ちるのはすごい。誰かと一緒に生きて、死ぬのはすごい事。
私達二人とも、あの頃は臆病で出来なかった。私達には別の道があって、それ以外を選ぶ事なんてとても。今でも出来ないと思う。彼には私じゃ駄目だった。
後悔した事はないけれど、彼を抱いてあたためてくれる人がいてくれて本当に良かったと心から思う。それが私じゃなくても。
「サクラ。手紙をありがとう。君が支えてくれたから僕は、一人の時間を乗り越えられた」
なんの支えにもなってない。そう思う。
薄っぺらな一枚の紙をよすがに何とか生き延びていた彼の孤独と苦しみの時間。私が彼にあげられたのはほんとうに、そんなものだけだったのだ。
「君も大変だったよね。何の力にもなれなくてごめんね。──今も、大変なんだよね」
「…うん。でも、きっともうすぐ終わるかも。こっちの戦争も」
「そう?」
「魔法世界と、日本と、全然次元が違う訳じゃないと思うの。日本の神社の娘で普通の小学生だった私のところに突然ホグワーツの入学案内が届いたみたいに、いろんなところでリンクしてるんだと思う。だからそっちで闇の勢力が滅んだ今は、きっとこちらでも何か流れが変わるんじゃないかなって。そんな気がしてる」
私はずっと考えていた。魔法界に残る選択を絶対にしない私が、何の干渉もしない私が、彼らとその世界に関わった事の意味を。
「リーマス。今まで言わなかったけど、私が今戦っているのは、歴史を修正しようとしている者達なの」
「え」
リーマスの目が見開かれる。
「過去に死んだ人を死ななかった事にするとか。それが正しくて、そうやって世界を良くしていくって本気で信じている人達がいて」
「……サクラ」
「うん」
リーマスがすごく痛そうな顔をしている理由が分かる。
──過去に死んだ人を死ななかった事にする。もしあの時、別の選択をしていたならば。
誰よりもずっとずっとその想いを抱えて生きて来た私達だから。
死なせたくなかった。
あの時こうしていたら、ああしていたら或いは。あの日の選択を違えなければ。あの時手を離さなければ。彼を、信じていたら。
あの時、あの時、あの時も。
あの人が生きている世界の方が絶対に正しい。今の方が間違っている。何度でも、毎日でも胸を引き裂く痛み。
「だからずっと…苦しかったし、私、何度も相手に引きずられそうになったけど」
「サクラ」
歴史を修正しようとする彼等の方が正しいんじゃないの?
ほんとうは自分もそうしたいんじゃないの?
揺らぐ事は何度もあった。この仕事はだからずっと苦しい事の連続だった。
「でもね、負けなかったよ。絶対。だって、ジェームズもリリーもシリウスも、ミスはしたかもしれないけど、いつでも一生懸命だったでしょう? 最後まで。──リーマスも、そうでしょ? それは大事な譲れない時間だったよね」
「うん……そうだね」
「後から別の者が修正するなんて、なかった事にするなんて、失礼だと思った。だから負けないでいられたの」
「うん。サクラのそういうところ、好きだよ」
「うん」
好きだって言ってくれるのが『今』なんてなあ…。リーマスらしくて笑える。
「サクラならきっと負けないね、これからも」
「うん。やさしいかみさまたちもついていてくれるから」
「…ああ、彼ら、すごく心配してた。君の事大好きみたいだ」
清光くんの事かなあ。それともお茶を出した誰かかなあ。他にも何人かの気配。
「私も大好き。今の家族なの」
本心から言う。言って、そっか、今は私にも家族が出来たんだな、なんて今更気付く。
リーマスはうれしそうに笑って、でも少し悲しそうに唇を歪めた。
「…ごめんね、サクラ」
ごめんねの理由、清光くんの心配の理由。
分かってた。
この本丸は時空の狭間に存在する。私以外の、うつつよに生きている人間が入り込む事は本来なら出来ない。ここに訪れた時点で、リーマスはもう生きていないって。
「…ほんとに、みんな逝っちゃうんだね」
「ごめんね、サクラ」
「でもリーマス、一人じゃないんだね。よかった」
「うん。待っててくれるんだ、妻が。だから──もう行かないと」
私は泣かなかったし、リーマスも泣かなかった。
「こんなからだもういやだ」と泣き事を零していたあの頃のリーマスだったら、誰かと一緒に死ぬような事は絶対なかった筈だ。
だけど今の彼は、恐らくは一番死なせたくないひとを庇って一人だけで逝ったりせずに、一緒に手を取り合って逝く道を選んだ。そのひとのしあわせを思う。なんて、なんて、なんてうれしかった事だろう。
そんなふうにリーマスを変えたひとがいた。うれしい。私には出来なかった。私よりもふさわしいひとがいた。巡り合ってくれた。リーマスをしあわせにしてくれた。素直に、ほんとうにうれしい。
「お願いがあって来たんだ」
「うん」
「僕らに何かがあった時、息子を──テディを頼めるのは君しかいないって思ってた。妻もそう言ってくれた」
いやいやいやいや。
十数年ぶりに突っ込みを入れたかったけどぐっと我慢して私は笑った。
「仕方ないなあ」
それ以外にどうする事ができただろう。
絶対にどう考えても「君しかいない」筈はないんだけど、子供の成育環境にもっと適したところが絶対に絶対にある筈なんだけど、でもこのひと、もうその子をここに連れてきちゃてるし。もう時間がないし。あと数秒であの世に行っちゃうし。ほら、足とか消えかけてるし。
分かった、っていうしかないじゃない?
「うん、分かった。安心して。ちゃんと育てる」
言霊は命より大事な約束だ。私が台詞に乗せた魂の意味をちゃんと理解して、リーマスはほわほわ笑った。断れない状況を作り出しておいてずるい男だなあと思う。
大事な大事な彼の赤ちゃんを受け取る。びっくりするくらい軽くて、怖いくらい重かった。
「…かわいい。テディくんはパパみたいなずるい男になっちゃ駄目だよー」
「大丈夫。サクラが育ててくれるんだから」
簡単に言うし…。でも。
「私、子供を産めないから。おかあさんになれてうれしいかも」
抱っこしたとき思いがけずうれしいなって気持ちが湧き上がって来たのはほんとうだから、そう言った。
「…僕の子どもだから面倒をかけるかもしれないけれど…。でも、彼女の子どもでもあるから。きっとサクラの助けにもなるよ、いつか」
すごい自信。ほんとうに奥さんの事が大好きなんだなあ。じゃあこれ以上待たせたら駄目だね。
「はやく行ってあげて。必ずいい男にしますって彼女にも伝えて」
「サクラ、ありがとう。君がいてくれてよかった」
それが最後の言葉だった。やさしい響きだけを残してもう彼の姿は消えていた。
私の腕の中にはちいさなあたたかいいのち。
「…………主?」
空気が変わったのが分かったのだろう、そうっと遠慮がちな足音と共にそばに来てくれた清光くんが、私の抱いている赤ちゃんを見てぎょっとしている。
「え!? え、嘘!? 何、え? 主その子どうするのまさか」
「新しい家族でーす。テディくんでーす、よろしくね、清光お兄ちゃん」
「おにっ…!」
おどけて言うと、清光くんは泡を吹きそうな顔をした。
だけど次の瞬間には「仕方ないなあ、主は」って困ったように笑ってくれる事、知ってる。
今日友達がひとりしんだ。
昔の友達。
大事なひとだった。
だけど私はその死をなかった事にしようとは思わない、彼の生き様が好きだったから。
そう、好きだったから。
結局のところ、やはり、そういうわけだったのだ。
(
『文末企画』に参加させて頂きました)
文頭「その光景はにわかに信じられなかった。」を作って下さったのはカピ。さんです。
文末「結局のところ、やはり、そういうわけだったのだ。」を作って下さったのは江子さんです。