ベビーパール・ティアラ 3
電話を切った後のサエさんときたら、そりゃもう笑えるくらい素早かった。
突然の全力失速。一瞬にして遠ざかる背中。
いきなり置いてけぼりにされた俺は、あんぐり口を開けて立ち尽くした。
…ちょっとサエさん、それはないんじゃないか。
「さくらが酔っ払ってる」という亮くんの衝撃発言(笑撃発言…ブッ)に驚いたのは分かるが、可愛い後輩の存在を忘れて中学時代ばりのスタートダッシュを切るのはひどくないだろうか。
「まあ…分かるけど…」
普段誰よりも冷静に周りをよく見ているくせに、心の弱い所を突かれるといきなり状況が見えなくなって突っ走るところ。久しぶりに見た。
サエさんのそういう部分は元六角中テニス部のメンバーくらいしか知らないだろうけど(もしかしたら不二さんは知ってるかもしれない)、普段絶対に隙を見せないサエさんのそういうところ、俺は逆にほっとしたりする。
でも。あのスタートダッシュは駄目だ。続かない。うん。
とりあえず、俺はサエさんを追いかけて走った。
途中、聡くんの店で「ごめん聡くん、これ置かせて」と持っていたお菓子満載のエコバッグと薬局のビニール袋を店先に置かせてもらう。お客さんの相手をしていた聡くんは、ちらりとこちらに視線だけ寄越して肩を竦めた。つまり了承のしるし。ついさっきこの場所を走り抜けていったであろうサエさんの事も見てるはずだし、大体の事情は察してくれてる様子だ。さすが聡くん、話が早い。大好き。
荷物を下ろして身軽になった俺は、手足に力をこめて加速した。
俺は、他のみんなと違って、ちゃんと就職もしてない。
ちょっとだけやった就職活動も、スーツも、俺には全然駄目だった。
テニスだけ、ずっと続けた。プロになるつもりなんかなかったけど、オジイのツテでインストラクターさせてもらったり、ラケット作りの手伝いさせてもらったりしながら、ずっとテニスだけは変わらず続けてきた。あとは商店街で単発のバイトをもらったり、学生時代に何かの間違いで始めたモデルの仕事(これはもうほとんどギャグとしか思えない)をたまにしたり。
そんなふうに、責任もなく好き勝手に生きてる。社会に出てがんばってる他のみんなとは全然違う、お気楽な身分だって思う。
でも、だから。好きに動ける。
他のみんなが、「大人の事情」に縛られて思うように動けないとき、俺ならフリーに動ける。大好きな人たちを助けてあげられる事が、できるかもしれない。それは俺の強みだ。
商店街を抜けて海に続く坂道に入ったところで、サエさんの背中を見つけた。
細い背中。学生時代よりずっと筋肉が落ちて、時々びっくりするくらい薄く感じる事がある。
真っ白いシャツをぴしりと着こなした姿は相変わらず絵になっているけど、手に持ってぶんぶん振り回してる買い物かごは妙にファンシーで可愛い。サエさん、なにそれ、趣味?
「サエさん!」
呼んだ声は届いた、と思う。この人に届かないはずがない。
でも無視された。うん。想定内だけど相変わらずサエさんの俺に対する扱いには少し凹む。
「サエさんって!」
ぐっと地面を蹴って加速、サエさんを追い抜いて正面に回り込む。サエさんは「わっ」と言いながら俺の胸に飛び込んで…いや正確に言えば激突してきた。地味に痛い。
「…ったぁ。…馬鹿! 何やってんだよダビデ! 危ないだろ!」
「……ごめんなさい」
とりあえず素直に謝るに限る。サエさんはきっと吊り上げた目を緩めて、続けようとしていた台詞(多分俺に対する痛烈な文句)を引っ込めて、「仕方ないな」という顔をした。
……この人、ほんとびっくりするほど年下に甘い。甘過ぎる。
こんなんじゃいろいろ大変だろうなと思う。
「…サエさん、ちょっと落ち着こう。そのペースじゃ倒れるよ。現役じゃないんだから」
サエさんは分かりやすくむっとした顔をした。でも、俺の言葉が図星だったのは自分で分かってるようだった。そりゃそうだ、そういう事を分からない人じゃない。
「……分かったよ。悪い」
額に浮いた汗を拭って、息を整えながらサエさんが溜め息を吐き出した。そこで謝っちゃうところがまたサエさんだよなあ…なんて思う。いろいろ、多方面に気遣いが出来過ぎる。たまに周りが見えなくなるくらい誰にでもある事なのに、サエさんの場合は後で必ず後悔をするんだ。苦労性な人だよなと思う。
「亮くんの声、困ってはいたけど深刻な感じはなかったし。大丈夫だよ」
「…うん、分かってる。でも」
走り出さずにはいられなかった。呟いて唇を噛んで、サエさんは道の先に目を向けた。
この坂の向こうは海だ。
「…さくら、どうかしたの」
「……」
「サエさん?」
「…どうかしてる。でも、それしか分からない。さくらが何に傷ついて悩んでるのかが分からないし、俺に何が出来るのかも分からない」
「え」
「俺、今結構落ちてる。途方に暮れてる」
「……」
うわあ。たいへんだ。
サエさんが、こんなふうにストレートに弱音を吐くなんて。
俺は心の中で「バネさんたすけて!」と叫んだ。そして情けなさにちょっと凹んだ。
しゅんと項垂れてしまったサエさんは、俺なんかよりよっぽど大人でしっかりしてて立派に人の親をやっているくせに、まるで中学生みたいに頼りない表情をしていた。
いや、中学生の頃も、高校生の頃も、サエさんはこんな顔を見せた事はなかった。いつだってしっかりしてた。同い年の人たちよりずっと大人びてた。
どんなことでもさらさらとこなしてきた(いや、実際には凄い努力をしてたのも知ってるけど)サエさんが、こんなに自信をなくして迷子の子どもみたいに立ち尽くしてるなんて。
「……さくらって…偉大だ……」
思わず、しみじみと漏らした俺の呟きに、サエさんは「はぁ?」と胡乱な目を向けた。
あ、今サエさん「またダビデが変な事言い出した。いつもの事だけど」って思ってる。心の声がだだ漏れだ。くそう…。
「だって、サエさんが今まで女の人の為にこんなに一生懸命走ったの見たことない。どの彼女の時も、追いかける事なんてなかったじゃん」
「……お前なあ……俺が何人も彼女をとっかえひっかえしてたような言い方はよせ」
「サエさんがとっかえひっかえしてた訳じゃないけど。彼女はころころ変わってたじゃん。告られて付き合って、で、大抵『佐伯くんは私の事を本当に好きじゃない』とか言われて振られて、すぐにまた告られて付き合って…」
「ちょ、ダビ、人の古傷を抉らないでくれる?」
「でも、サエさんが彼女を引きとめた事って見たことないから。追いかけた事って、ないんじゃない?」
俺の言葉に、サエさんは目をぱちぱちとさせた。…透明な目だなあ、と思う。ほんとにこの人は昔から冗談みたいにかっこよくてモテモテで、それが当たり前だと自分で思っちゃってる人だった。
「……そう言われてみれば、そうかも」
口元に手を当てて考える仕草も様になっている。けど考えてる内容はかなりボケボケだし、発言がまたひどい。
「そっか、俺、今まで女の子を自分から追いかけた事ってないんだな。俺をこんなに走らせたのはさくらが初めてだ」
「……」
「……そうか。俺、今まで自分は親として客観的で冷静なつもりだったけど、実は結構親バカの傾向があったのかもしれないな。自分とは無縁と思っていたけど…」
「……」
冷静って何。客観的って何ですか。
親バカの傾向どころか親バカそのものじゃないか。っていうか今気付いたのかサエさん。ボケボケにも程があるだろう。そしてその「女の子を追いかけた事がない」発言、剣太郎が聞いたら血の涙を流すぞ。
俺は体中の力がへなへなと抜けていくのを感じながら呟いた。
「…まあ、仕方ないと思う。さくらだし。あの子は、特別だから」
ん?と首を傾げるサエさんに、割と、宣戦布告みたいなつもりで続ける。本音で。
「俺にとってもさくらは特別だから。世界でひとりだけの、お姫様だから。他人の俺でもそうなんだから、父親のサエさんが少しくらい親バカになっても仕方ないと思う」
実際は「少しくらい」どころじゃないけどな。サエさんは親バカ中の親バカだ。呆れるくらいに。
「……うん。そっか」
俺は、結構真面目に言ったつもりだったんだ。「俺にとってさくらは特別」って。彼女の父親のサエさんに向かって、挑むような気持ちで。それなのにサエさんは、あっさり頷いてふわりと笑った。
「ありがとう、ダビデ」
その笑顔があんまりきれいで、だから反則だろう、と思う。
親子で同じ笑顔なんて本当にずるい。
「そうだな。さくらは世界でひとりだけのお姫様だ。それも、塔の中で助けを待ってるか弱いお姫様じゃない。塔なんて自分でぶち壊して、ひとりでどんどん歩いてく、気高い、つよいお姫様なんだ。…そうだな、俺は彼女の戴冠式でティアラを捧げ持つ従者の一人くらいの気持ちでいられたらいいな」
「…………」
……まったく、何を言ってるんだか。このどうしようもない先輩は。
サエさんが従者の一人とか、冗談じゃない。さくらがお姫様ならサエさんは王子様だ。さくらが、華麗にずんずん進んで行って茨の森から助け出す王子様。……あれ?王子様とお姫様、逆…?
とりあえず、俺は戦うお姫様を傍で支える騎士くらいにはなりたい。うん。とても難しいけれど。
そんなことをつらつら考えていたら、サエさんに腕を引っ張られた。
「ほら、お姫様を迎えに行くよ、ダビデ」
……あ、そうだった。
海の見える亮くんのマンションのリビングで、さくらはソファですうすうと寝ていた。
眠れる森のお姫様。っていうか、酔い潰れたお姫様。
「いやー、小説のネタについて語ってたら盛り上がっちゃってさ」
亮くんが悪びれた様子もなくクスクス笑いながら説明する。
「さくらが淹れてくれた紅茶に、いつもの癖でブランデー垂らしてたらさ、なんかいつの間にかさくら、それ飲んじゃって。気が付いたら顔真っ赤にしてけらけら笑いながら『パパのはっぽうびじんー!いっぺんいたいめみろー!』とか叫んでてさあ、俺も面白くなって『そうだそうだー』とか二人で叫んでるうちにさくらコテンと寝ちゃって」
「は、はっぽうびじん…」
がーん、と背景に文字が出てきそうな表情でサエさんが固まる。亮くんは悪魔のように美しくクスクスと笑いながら「まあ、発散はできたと思うよ」と言った。面白がってるなあ。いきいきしてる。
でも、「さくらには絶対秘密だけど、サエがあんまり可哀想だから」と亮くんが話してくれた内容は、思わずぞっとするほど重かった。
サエさんに近づきたかった女の人が、さくらに言ったという、その中身が。
俺は怒るより先に震えあがってしまった。女の人って…怖い。そしてそれを今まで誰にも打ち明けずに一人で処理しようとしていたさくらも、また女だと思った。全然違うけれども、でも、さくらには彼女の気持ちが誰よりも分かったんだと思う。彼女もまた女、で。つよい。
つよくてよわい、いきもの。
サエさんは、そりゃ当然、ショックを受けた顔をしていた。
でも実際のところどこまで分かってるか怪しい、と俺は失礼な事を思った。なぜならサエさんは最悪な事に、その女性の事をまるっきり覚えていなかったからだ。これには俺も亮くんもあんぐり口を開けて呆れるしかなかった。
「え、そんな女の人に心当たりなんてないんだけど、ほんとに」
「はあ!? だってな、足繁く店に通って、いつも化粧ばっちりで、必要以上に馴れ馴れしく絡んできてたんだろ? 常連の他のお客さんからも呆れられるくらいに」
「ええー…そんな人いたかな…。ていうか、お客さんには愛想よくするよ、それは当然だろ。でもそれ以上の付き合いになった人なんていないんだけどな」
本気で分からない様子のサエさん。
俺は思わず、相手の女性に同情してしまった。さくらを深く傷つけた憎い相手なのにも関わらず。
…でも、分かる。
俺は『SAE CAFE』によく行くからすごくよく分かる。あの店で、サエさんは誰にでもそれはそれは優しい。にこやかだ。このかっこいい顔で、甘い笑顔で、心がぐらっとくることをさらさら言う。そりゃもう無自覚に。仕事だと割り切ってやってるんじゃない、素なところがまた始末に悪い。
接客業としてサエさんはとても優秀だ。でも、きっとサエさんは店の外でお客さんにあっても相手が誰だか分からない。冷たい訳じゃない。優しい言葉は全部心からのもので、何も嘘じゃない。でも、サエさんの心に入って行く事は彼女たちの誰にも出来ない。
奥さんでも無理だった。
サエさんを走らせることが出来たお姫様は、世界でひとり、さくらだけ。
…それは、少しだけ、悲しい事だと思った。
亮くんはチッと舌打ちをすると、いきなり強い視線を俺に向けた。びっくりした。
「ダビデ、お前さっさとさくらを掻っ攫え。このボケボケロミオから」
「「──はぁ!?」」
…今日はよくサエさんと台詞が被る日だ。ていうか亮くん、いつもながら唐突過ぎる。
「サエよりさくらのほうがよっぽど大人だし! この際ダビデが文字通り大人にしてやれ。うん、そうだ、それがいい」
「ちょ、亮くん、何言って…」
「亮亮亮! そういうのはお前の小説の中だけにして! こいつを下手に焚きつけるな! 馬鹿なんだから! うっかり本気になったらどうするんだよ! 馬鹿なんだから!」
「サ、サエさん、馬鹿って2回も言わなくても…」
……本当に、うちの先輩たちって、俺に対していろいろひどいと思う…。
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