ゆめのはざま
「桜」
苦しい怖い過去の亡霊に絡め取られて泣いていた私を、一瞬であたたかなベッドに引き戻す大好きな声。
「サエ」
しゃくり上げながら名前を呼んだら、凄く近くでほっとした気配がした。抱きしめられてた。
「…また悪い夢を見た?」
優しい声で訊いてくれる。私は顔を上げて彼の目を探した。サエはすぐにわかって、抱きしめる手を緩めて少しだけ体を離して、しっかりと目を合わせてくれる。
豆電球の薄明かりでもはっきりわかる、優しい目の色。誰よりも好きな人。
「サエ」
「うん。大丈夫だよ、桜。夢だから」
「…ゆめ?」
「そう、夢だよ」
だから安心していいよ、俺がいるから。
優しい言葉をくれて、あたたかい腕で抱きしめてくれる。
好きな人に好きになってもらえて、夜ひとりで泣かなくてよくて、こんなに大事にされてることに、うれしいのに、私は怯える。ゆめみたいだから。ゆめなんじゃないかって。
「サエ」
「うん」
「どっちがゆめ?」
きれいな指で涙を拭われて、キスされた。
「俺がいる方が現実だよ」
目を閉じてそのくちびるを受けながら、私はまた涙をこぼす。
「桜は俺が信じられない?」
「誰よりも信じてる。でもしあわせすぎてこわい。夢だったら、起きたらサエがいなくて、またあの場所に戻っていたらどうしようってこわくて眠れない」
「…ばかだなあ」
凄く優しい声で、笑われた。でも泣きそうな笑顔だった。
「じゃ、朝まで一緒に起きていようか。一緒に朝日を見よう」
なんて優しい人。私はまた泣いた。サエが困ったように笑いながらまた涙を拭ってくれる。
「だめだよ。明日も朝早いでしょ。サエは寝なくちゃ」
「桜を置いては眠れないよ」
「…私、サエの寝顔見てる。それで大丈夫だから」
本気で言ったのにサエは目を丸くして、小さく吹き出した。「桜は可愛いなあ」なんて笑われて居たたまれない気持ちになる。だけど、サエが笑ってくれると私の心もあったかくなる。こっちが現実だって少し信じられる。大好き。もっと笑って、サエ。
サエをもっと、いつも笑顔にしてあげられる私になれるようにして下さい。かみさま。
「じゃあさ、よく眠れるおまじないしてあげる。もう悪い夢を見ないように」
私の前髪を優しくかき上げて、おでこに押しつけられるあたたかいくちびる。
「泣かないで、桜」
また零れ落ちてしまった涙に、サエはすぐに気付いて苦笑した。私のことで、サエの目を逃れられることなんかないんだって思ったら安心した。
「…おまじない、すごく効きそう。ありがとう」
どういたしまして、ときれいに笑う大好きな人。
「お望みなら毎晩でもしてあげるよ」
「うん。毎晩、して」
冗談ぽく言われた提案に私が大まじめに答えたら、つよく抱きしめられた。
「桜」
降ってくるあったかいキスの雨に、ほどけるように身を任せる。ここは現実。ここはあたたかな場所。泣きそうなくらいの安堵に、すべてをゆだねてしまいたくなった。
「桜」
繰り返し、サエの声で呼ばれる私の名前は、世界中の誰に呼ばれる時とも違う名前に聞こえる。
特別な、サエだけの、私の名前。
「ねえサエ、私はサエだけのものだよね?」
縋るように吐きだした本音。お願いだから否定しないで。
抱きしめる腕に力がこもって、キスが深くなって、息を弾ませながらくちびるを離すほんの一瞬の隙間に、サエが「そうだよ」と言ったから、私はますます泣きそうになる。もう泣いてる。
「桜は俺だけのもので、俺は桜だけのものだよ」
「…サエ、依存してごめんなさい」
重くてごめんなさい。ぐずぐずと流す涙を、サエの舌が掬って、救ってく。
「束縛してるのは俺の方だから。ごめんね、桜。好きだよ」
サエが。
私を大切にして、優しくして、甘やかして、私がサエから離れられないように、サエなしじゃいられないようにしたのは知ってる。わかってる。罪悪感持ってるのも知ってる。私はそれを利用してるし、サエもそのことを知ってる。ふたりともどうしようもない愚か者で、でもふたりで沈むこの海は絶望するほどしあわせで、ここから出たら一秒だって呼吸できない。
大好き。私たちは何も間違ってないし、お互いに誠実だ。
「…ここが現実だね」
泣きながら笑ったら、サエも泣きそうにほっとした顔で、笑った。