スプリング、ハズ、カム






春は嫌い。

冷たい風が解けるように柔らかさを増して、ふんわりとお花の匂いがして。
海が、きれいな淡い水色になって。水彩絵の具で描いたみたいに、水平線がグラデーションに滲んで。
大好きな人が、厚い上着を脱ぎ捨ててきれいな筋肉のついた体がよく見えるユニフォーム姿になって、楽しそうにラケットを振る姿を見られる。
そんな素敵な季節だけど。

でも嫌い。
私だけ外を楽しめない。皆が散歩だお花見だって楽しそうに外に繰り出していくのに、私は家に閉じこもるしかない。ぽかぽかのいいお天気でも洗濯物を外に干す事すら叶わない。だって。

「……へっっっっ……くしゅ!」

花粉症になってしまったから。です。





「桜、桜さーん? いつまでこたつむりしてるの」
「…………」

いつもは聞くだけでうれしくなる大好きな声が、今ばかりは鬱陶しい。
その爽やかさが! 春の風を連想させるから! イラッとする!

理不尽なのは百も承知。だから私は黙ったままこたつの中に潜り込んだ。
ああ、こたつ最高。大好き。愛してる。こたつの中にいれば私もあったかいもん。外になんか行けなくたって…。

「よいしょっと。ちょっと失礼」
「何入って来てるんじゃあ!」
「わっ、いてっ! ちょっと桜! 蹴らないで!」
「サエさんが勝手に入ってくるからでしょ! やだーセクハラ!」
「セクハラってあのねえ…」

サエさんが呆れた声を出す。でも、狭い一人用のこたつに無理矢理潜って来るのはやっぱりセクハラの一種だと思うのです。たとえそれが大好きな先輩であったとしても。
私は仕方なく、肩まで潜っていたこたつからもそもそと這いだしてきちんとと座り直した。こたつには脚だけを入れる。…つまり、本来の正しいこたつの使い方で。
サエさんも私の向かい側にちょこんと座った。そこが彼の定位置だから。二人で向かい合ったらいっぱいになってしまう、私の部屋の小さなこたつ。

「……辛そうだね」

私の顔を改めて見て、サエさんが苦笑する。笑ってはいるけれど声には心配や労りが溢れてて、私はその声に縋って泣きたくなった。実際に今この目は涙で滲んでる。…単に花粉症による結膜炎のせいだけど。

「いちご持ってきた。一緒に食べよう」

いちごぉ? こたつにはみかんでしょうが!
…と思ったけれど、ウニを持って来なかっただけサエさんにしては上出来なのです。私は「ありがとうございます」とお礼を言って彼が差し出したいちごをひとつ摘んだ。

「うん。…あまい? ような気がします」
「気がするだけ?」
「だって鼻詰まってるんだもん。匂いしないから味もよくわかんないです」
「そっか」

サエさんはまた笑った。気の毒そうな顔で、仕方ないなあって困ったみたいに。その笑顔を見たら胸がぎゅうっと痛くなった。

「…桜が来ないと、剣太郎が寂しがってるよ」
「……っ」
「優秀なマネージャーがいないと部長は大変なんだよ。それからダビデも。口には出さないけどね、心配してる」
「……」

サエさんは?
そう訊きたかったけど声にならなくて、私は大きないちごを丸ごと口に突っ込んだ。味も分からないのに。真っ赤ないちごは口の中でぷちんぷちんと新鮮な水気を出しながら弾けて、ちょっとだけ清涼感が得られた気がする。

「…ごめんなさい。薬、飲んだから。ちょっとはマシになると思うから、明日からは部活出ます」

今年唐突に発症した花粉症。微熱まで出て暫く部活を休んでいたけれど、そろそろ行かないといけない時期だ。春だもの。
花粉症は治らない。だったら付き合っていく術を見つけないと。

「うん。でも無理はしないでね。休み休みやる事。きつかったらすぐ剣太郎かダビデに言うんだよ」
「……はい」

サエさんに、じゃなくて。剣太郎かダビデに。
仕方ない。分かってる。だってサエさんはもう六角中テニス部のメンバーじゃない。…引退、しちゃったんだから。
私が部活に戻っても、副部長として剣太郎の隣に立っていたサエさんはもういない。今はその場所にダビデが頑張って立っている。
サエさん。いつも皆に気を配って、きびきびと計画を立ててみんなを纏めて。でも副部長らしく一歩引いて、剣太郎のサポートに徹してて。コートの側に立つ彼の赤いユニフォームのすんなり伸びた背中を見たら私はいつでも安心した。いつでも、どんな時でも。助けられてた。
だけどラケットを持ったら子どもみたいにわくわくした目をして、楽しくて楽しくて仕方ないってプレイをして、いつまでもいつまでも部活が終わらなくて剣太郎に怒られて。サエさんだけじゃない、バネさんたちもみんなみんな。三年生なのに、一年生の剣太郎に並んで怒られながら「悪い悪い」って笑ってた。そこに樹っちゃんが「その辺にするのね、味噌汁が出来ましたよ」って声をかけてくれて……。

「……桜」

目の前のサエさんの顔がじわじわぼやけた。
心配そうな声を出すサエさんに、私は「花粉のせいです」ってそっけなく答えてティッシュで盛大に洟をかんだ。
もう、花粉症って厄介だ。涙と鼻水が止まらない。

「…桜」

本当に、本当に優しい声で。声で撫でてくれるみたいな優しさでサエさんが名前を呼ぶから。私はもう我慢できなくなってこたつに突っ伏してわんわん泣き出してしまった。

「……これ、これ花粉のせいですからっ…」
「うん、分かってる」

サエさんは大きな掌で優しく頭を撫でてくれた。こたつがミニサイズだから、向かいに座っていても簡単に手が届く距離。

「泣いていいよ」

むかつく。本当にむかつく。全部分かってるってかんじのその声が。
みかんじゃなくていちごを持ってくるところも。もう春だよって言われてるみたいで。

……そうだよ。もう春だよ。そとの空気は甘くてあったかい。私は花粉症になった。たくさんの綺麗な花が咲いて…季節が、変わって行くから。

来週、あなたは卒業してしまう。

春なんて嫌い。来なければいいのに。

「サエさんお願い、卒業しないで」

わんわん泣きながら、私はついに言ってしまった。頭を撫でるサエさんの手がぴたりと止まって離れて行った。あ、寂しいな、と思った途端にあったかい気配がすぐ隣でして、サエさんに全身抱き締められてた。つよく。

「……やっと言った。いつ言われるかと思ってたけど…そんなに泣いて言われると思ったよりきついな」

私の頭をぎゅうぎゅうと胸に押しつけながらサエさんが低い声で言う。いつもより近いから少しくぐもって聞こえた。
サエさんをつらくさせてるのは私だって思ったら悲しくて、私は慌てて「違うよ、これは花粉のせいだから」と言い訳をする。その声も、サエさんに押しつけられてるからくぐもってて。

「サエさん離して、服が汚れちゃう」
「いいよ別に。桜の涙に胸を貸せるなら先輩冥利に尽きるし」
「……涙だけじゃなくて鼻水もつきます」
「ははっ、それもいいよ」
「……サエさんの馬鹿」
「馬鹿はひどいなあ」
「卒業しないで下さい」
「…ごめんね」
「やだ。許さない。卒業しないで」
「ごめん」

…多分。
サエさんという人は、将来をしっかりと見ていて。卒業後の進路を決めるのもとても早かった。超難関と言われるその道を、これからこの人は真っ直ぐに進もうとしている。顔を上げて、迷うことなく。
だけど六角中を、そのテニス部の仲間を誰よりも大事に思っていたのもサエさんで。「ごめん」って言いながら私を抱き締める腕にこもる力の強さに、サエさんが今感じてる寂しさもいっぱいいっぱい伝わって来た。
「俺も卒業したくない」なんてサエさんは口が裂けても絶対に言わないけれど。この人だって寂しいんだ、つらいんだって分かったら私の涙は少しずつ止まっていった。

「サエさん」
「うん」

サエさんがいいって言うから遠慮なくそのシャツの胸で、涙と鼻水でべたべたの顔を拭かせてもらって私は彼の名前を呼んだ。
言えるかな。大事に。言わなきゃ。

「あのね。……卒業、おめでとうございます」

ぎゅうううって、サエさんの腕がまたつよくなって苦しかった。私の肩に伏せられたサエさんの表情は読めないけれど、「ありがとう」って声は震えてて私の肩がじわりと濡れて。……ねえサエさんおかしいよ。花粉症なのは私の方だよ? どうしてあなたが泣いちゃうんですか。





春は来ちゃう。
望んでも望まなくても。
やわらかくあったかくいい匂いをさせてふわふわと明るく、でもひどく残酷に。

ちっちゃなこたつで向かい合ってた季節は終わり、新しい場所を私たちは歩かなきゃいけない。
こんなふうに泣いてる姿からでさえ、私はサエさんにそれを教わってて。どこまでいっても先輩なこの人を本当に好きだなあと思ってまた泣けてきた。
もうちょっとだけいいよね。

来週の卒業式で、ちゃんと笑っておめでとうを言う為に。今だけは。


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