君から広がる世界






──どうしても古文が分からなくて。
佐伯、国語得意だったよね。お願い。今度の日曜日に家に来てみっちり教えてくれないかな。

普段頼ったり甘えたりといった行動を全くしてくれないしっかり者の桜に「本当に申し訳ない」という顔でお願いされたら断る理由なんかない。
しかも彼女の家だ。初めてお邪魔する理由が「勉強」とは色気に欠ける気もするけれど、中学生らしい健全さでそれもいいと思う。俺は二つ返事で引き受けた。

──ありがとう。

ほっとしたように笑う桜。彼氏にお願いするのにそんなに緊張することないのに、と可笑しくなって抱きしめようとしたらするりと逃げられてしまったけれど。





「どうぞ」

少し緊張気味に案内された部屋は、クールな彼女らしくすっきりと綺麗に片付いていた。でも薄紫のリネンのカーテンや淡い桜色のキルトのベッドカバーが可愛らしい。それに何より意外だったのが…

「……何よ」

じっとりと睨むような目で見上げてくる桜に苦笑しながら、俺は彼女のベッドの上にずらりと並んだそれらを指差した。

「いや、あれ、可愛いなって」
「…分かってる。似合ってないって言うんでしょ」

そんな事一言も言ってないのに、桜はぷいと顔を背けた。あまり表情が変わらない彼女だけれど、白い頬が微かに赤く染まっているのを可愛いなあと思う。

「似合ってないなんて思わないよ。確かに少し意外な感じはしたけどね」

触ってもいい?と訊いて桜が頷くのを確認し、俺はベッドにきちんと並んだそれら──たくさんのぬいぐるみ──の中から茶色いテディベアを選んで抱きあげた。その時、指が桜のベッドのシーツに触れて少しどきりとした事は内緒にしておく。変態くさいと思われたら嫌だ。

ふわふわの毛並みのクマは見た目よりしっかりと重く、手に持つとごつごつしていて硬い。リアルな背中の瘤。じっとこちらを見上げてくる静かなグラスアイ。

「シュタイフだね」

呟くと桜が目を丸くして俺を見た。

「え。佐伯知ってるの?」
「そんなに詳しくはないけど、姉さんが好きだから。これ、1909クラシックでしょ。姉さんもいくつか持ってる」
「そうなんだ…」
「可愛いよねこの子」

俺がクマの頭を撫でると、桜が「うん!」と笑顔になった。うわ、なんだそれ可愛い。語尾に「!」マークが聞こえた。あまり感情表現が豊かな方ではない桜がこんなに無防備に嬉しそうな笑顔を見せてくれる事はほとんどない。俺は抱きしめたい衝動を必死で押さえた。そんな事したら家から追い出されかねない。

「凛々しくてかっこいいのに可愛くて、蜂蜜色なところが好き」

本当に愛おしいものを見る目でクマを見つめる桜。少しはその目を彼氏にも向けて欲しいんだけどなあ…。

「あのピンクのは1907、その隣のは白タグだね。桜、テディベア好きなんだ」
「…佐伯ほんとに詳しいんだね。すごい」
「姉さんの受け売りだよ」
「それでもすごいよ。シュタイフに詳しい男子中学生なんて、なんか可笑しい」

桜がくすくすと笑うから。受け売りだけど聞いておいてよかった!と俺は心から姉さんに授けられた無駄知識に感謝した。

「…さっきも言ったけど。意外ではあったけど似合ってないなんて思わないよ。桜の事をまた一つ知れて嬉しいな」
「……っ」

桜は何故か複雑そうな顔をして黙りこむと、俺の腕からクマを取り上げてさっさとベッドに戻してしまった。

「…こんな事してる場合じゃなかった。今日は勉強の為に佐伯に来てもらったんだもの。古文、みっちり教えて。しっかりしごいてね。私本当に駄目な生徒だから覚悟して。厳しくしてね。甘やかさないで」

きっ、と睨まれる。いつも通りの生真面目な彼女の眼差しに俺は苦笑して頷いた。


「──主格とか所有格とか、変に名前を付けて考えるから難しくなるんだよ。ここ、どんな意味?」
「ええと……『彼女が』…?」
「そう。ちゃんと分かってるじゃん。ここも、こっちも『が』だよね。それでこっちだけ意味が違うの分かる?」
「うん。こっちは『彼女の文』だよね。…あ、ここだけ『の』に変換できるんだ」
「そう、だから違う。簡単だろ? 別に全文訳す必要なんてない。ニュアンスで読めるようになると楽だよ。……先生は違う意見かもしれないけどね」
「ふふ。私は佐伯のやり方の方が好きだなあ。古文って訳すと印象が変わっちゃうよね。本当はもっと仄めかすみたいにいろんな意味を含めて言ってるのに、単純明快になっちゃう気がする」
「勿体ないよね」
「うん」

悲壮な顔をしていた割に、桜の古文の出来は悪くなかった。悪くないどころか…かなりいい、と思う。何度も引っかかっていたらしいミスを直したら、驚くほどすんなり飲み込んでするすると問題を解いていく。

「……今回は古文だけど、きっと英語とか、他の言葉でもそうなんだよね」

俺が花丸をつけたプリントをうれしそうにそっと撫でながら、桜がふいに言った。

「え?」
「訳しちゃうと単純明快になりすぎちゃうって。英語をもっと理解したら字幕なしで映画を見られるようになって、そうしたらきっと、今まで知らなかったニュアンスとか面白い言い回しとかたくさんあるんだろうなって…」
「ああ、それはそうだね」
「ね。知らないままでいるって勿体ないよね。佐伯が読んでくれると、呪文の羅列みたいな古文もちゃんと物語になるもの。そんなふうに、世界を広げていきたいなって思うんだ……佐伯といると」
「…………」

どうしよう。可愛い。押し倒したい。このまま押し倒して古文なんかじゃなく保健体育の勉強に持ち込んでいろいろ教え込みたい。いや俺だってその方面に関しては得意なわけじゃないけれど。

目の前で彼氏が物凄く間抜けな事を考えているとも知らずに、桜は古文のプリントから顔を上げてにっこりと笑った。ああ、この信頼感でいっぱいの笑顔。可愛い。駄目だ裏切れない。

「佐伯は苦手な教科ってないの? ある訳ないか、いつも成績上位だもんね」
「…いや、そんな事もない、けど」
「え? 苦手なのあるの?」

なあに?と珍しく興味深々の顔で覗き込まれた。

「ええと…強いて言えば数学かな」
「えー? でも授業中当てられて間違った事ないじゃない。…ああ、私とは苦手の基準が違うんだ」
「それは予習してるからと、運がいいからだよ。数学のね、分数、が特に苦手。問題が解けない訳じゃないけど、分数が目に入ると咄嗟に構える。実際に苦手っていうより苦手意識の方が強いかな」
「……よくわかんない」

首を傾げる桜。うん、俺も自分でもよく分からない言い方だったと思う。

「俺、小3の夏休みに転校してきたんだ」
「うん」

桜とは中学で会ったけれど、俺が小学3年まで東京で育った事は当然彼女も知っている。

「でね、東京の学校では分数って夏休み明けに習う予定だったんだよ」
「うんうん」
「ところが転校してきたら、こっちの学校では夏休み前に分数の章が終わってて」
「ええー!」
「教科書が違ったからね。学習の進み方も違ってて。でも丸々一章分も自分が遅れてるのは辛いものがあったなあ」
「それはそうだよ!」

桜はへにゃりと眉を下げて大きく頷いてくれて、俺は今更小学3年生の自分が救われた気分になった。
勉強も運動もそれなりにできてきたタイプでそれが当然だと思っていたから、クラスで自分だけが分数をまるで理解できていない衝撃は大きかったんだ。子ども心に。

「それで…どうしたの?」

心配そうに桜が訊いてくる。そんなに困った顔をしてくれなくてもいいのに、と俺は苦笑した。

「日曜日使って、教科書のその章、自宅勉強した。姉さんに先生になってもらって、意地で一日で詰め込んだ」
「えええー!」

桜があまりに大袈裟に驚くから、今度こそ俺は笑い出してしまった。

「そんなに驚かなくても。だって仕方ないだろ? 俺だけ特別カリキュラムを組んでもらう訳もいかないしさ」
「それはそうかもしれないけど……小学3年生が、そんなの。それで、しっかりマスターできたの?」
「姉さんがスパルタだったし。授業に追いつく程度には理解できたよ。でもやっぱり学校の先生に教わるのとは違って自己流の覚え方した部分はあったし、今でもちょっと分数に関しては苦手意識が抜けないんだよね。…問題は解けてもさ、多分この解き方ってみんなとは違うんだろうなとか思うし」
「……そんなの、ううん、すごいよ。私の小学3年生の頃なんて、先生に教わる事だけが全部だったよ? 今みたいに、勉強って面白いなあとか、もっと違う解釈を知りたいとか、そんなふうに考える余裕なんてなくて…。…そういうの、佐伯と出会ってからだ。佐伯はやっぱりすごいなあ」

桜はしみじみと考え込んだ後、ふっと笑うと手を伸ばして俺の頭をぽんぽんと柔らかく撫でるように叩いた。驚いた。彼女にそんな事をされたのは初めてだったので。

「……ちっちゃい頃の佐伯に。よくがんばったね。えらいね」
「…………」

やばい。迂闊にも感動して涙が出そうになった。
それから、俺はやっぱりこの子のことがどうしようもなく好きなんだ、こんなところが好きなんだと再確認させられた。

「──さて。佐伯のお陰で古文も大分理解できたし。ご飯でも食べに行く?」

プリントやら参考書やらをまとめて片づけ始めた桜の台詞に、俺は「ええっ!?」と情けない声を上げた。桜の動きがぴたりと止まる。

「…『ええっ』て…何よ」
「……いやあの、せっかくお邪魔したんだし、もう少し桜の部屋でゆっくりしていたいなあって…」
「もう勉強も終わったし、ここですることなんかないじゃない」

お望みなら保健体育の勉強を実地でするけれど、と言いそうになって慌てて口を噤む。それはまだ早い。それくらいの理性は俺にもある。

「ここにいるだけでも楽しいよ。桜の部屋、桜らしくて可愛いし」
「……さっきは『意外』とか言ったくせに」
「意外だったけど似合ってない訳じゃないとも言ったろ? ぬいぐるみ好きなところとか、カーテンが手作りっぽいところとか、桜の意外なところを見られて楽しいんだ。ますます桜に近づける気がして嬉しいし」
「……っ」
「シュタイフベアーと、ぼろぼろのぬいぐるみを一緒に可愛がってるところが可愛くて好きだよ」

桜のベッドにずらりと並んだぬいぐるみ、威厳のあるシュタイフの隣にあちこちはがれた赤い古そうなクマのぬいぐるみや、すっかり灰色に汚れてみずぼらしくなっている元は白かったと思われるネコのぬいぐるみも同じように大切そうに並べられていて、それは凄く桜らしいなあと思った。

「あれは…っ、あのネコは4歳の誕生日に買ってもらって、ずっと持ち歩いててあんなにボロボロになっちゃって、でも捨てられなくて」
「うん」
「……はずかしい」
「そんな事ない。そういう話を聞かせて欲しい。今日は」
「…さっきの、佐伯と分数の話みたいに?」
「はは、そうだね。あれも正直恥ずかしかったから」
「……私は、佐伯の事もっと好きになった」
「え」

思わず言葉を切って桜を見返すと、桜はベッドから先程のシュタイフの蜂蜜色のテディベアを抱き上げて愛しそうに撫でながら言った。俺の方を見ないままで。

「…勉強が楽しいのもね、もっと頑張っていろんな世界を見たいと思うようになったのも、全部佐伯のお陰だよ。難しいのは分かってるけど、頑張って、佐伯と同じ高校行きたい。…それからね、この子を買ってしまったのも、佐伯に似てるからなんだ。凛々しくて、かっこよくて、可愛くて、蜂蜜みたいな色してて。……目が、優しくて」

だから好きなの、と相変わらず俺を見ないままでテディベアをぎゅうっと抱きしめる桜を、伏せた顔にかかる髪の間から覗く真っ赤な耳を。
俺がどうしたかは、ちょっと言えないな。余裕のない自分を思い出すのは恥ずかしいから。





数日後、古文のテストで格段に順位を上げた桜へのお祝いに、俺はペールピンクのリボンをプレゼントした。彼女とテディベアと、たくさんのぬいぐるみたち全員分お揃いで。
あの可愛らしい部屋と彼女に、それはとてもよく似合った。


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