アニバーサリー






『ダイアローグ』あずみさんの「愛しい人」という赤澤さんのお話から影響を受けて書かせて頂きました。既婚設定、未来夢です。






地下街の花屋にチューリップの花束が並んでいた。
地下鉄の乗り換え駅、人工的な明かりに照らされた小さな花屋。普段は気にも留めない通勤風景の中でチューリップの淡い色が妙に目を引いた。もうそんな季節になったのかと思う。まだコートが必要な寒さなのに、確実に春が近付いている事を感じさせられた。
ピンクのチューリップは桜の好きな花だ。故郷の中学の花壇には春になると色とりどりのチューリップが咲き誇る。桜は毎年それを惚れぼれと見ては「ピンクが一番好きだなあ」と笑っていた。
花屋の店先に並ぶチューリップはひらひらした繊細そうな花弁の品種で、母校の花壇で咲いていたごくオーソドックスな一重のチューリップとは全く違ったけれど、気付いたら小さな花束を手にとっていた。「贈り物ですか?」と微笑む店員に首を振る訳にもいかず。

花束を持って帰るなんて少し恥ずかしい。でも今日は特別な日だから。





『用事が長引いて、帰りが遅くなっちゃいそう。夕ご飯の支度ができてないの。コンビニでお弁当買って先に食べてて。ごめんね』

会社で桜からのメールを読んだとき、正直がっかりしなかったといえば嘘になる。
3回目の結婚記念日。残業も早めに切り上げて帰るつもりだった。何の約束もしていなかったけれど、桜は手作りのご馳走を用意してくれてるんじゃないかなあ。特別な日に桜が作ってくれるウニの載ったちらし寿司は美味しいよなあ…なんて儚い期待が泡と消えた瞬間だった。
なんだ、結婚記念日とかそわそわしていたのは俺だけか。実はこっそりプレゼントも用意してたりして、乙女か俺は。
それにしてもコンビニ弁当とは。桜はもしかしなくても今日が何の日かさっぱり忘れているらしい。さすがだ。男らしいな桜! そんなところも大好きだ。そして凹んでいる俺、女々しいな!
ますます落ち込みそうになったところで、俺の脳裏にきらりとある事が閃いた。

──そうだ、俺が夕飯をつくろう。

その無謀ともいえるひらめきは俺の心を明るくした。
結婚以来、いやその前の半同棲の大学時代から料理は桜の担当で、俺は彼女のつくる美味しい料理を食べるのと後片付け専門だった。スポンジなら毎日持っているが包丁を持った事なんて数えるくらいしかない。料理が苦手な訳ではない(と思う)が、桜がいつもあまりに手際よくそして楽しそうに料理をしてくれるので、俺はついその姿を眺めてるだけで幸せになってしまい手伝うのを忘れてしまうのだ。桜も世にも可愛らしい笑顔で「邪魔しないでねサエ」とか言うし……あれ、思い返すと情けなくなってきた…。
料理もできない夫なんて情けない。今日は俺が夕飯をつくって桜を迎えよう。いつも彼女がそうしてくれるように。彼女の「おかえりなさい」がどれだけ俺の支えになってくれているかしれない。今日はその恩返しの番だ。よし!

よし!と気合いを入れた俺が一番最初にしたことは、幼馴染みに電話で助けを求めることだった。…やっぱり情けないな俺。

『で、サエは何を作りたいのね?』

店の忙しい時間に突然電話した俺に迷惑そうな声も出さず、最後まで話を聞いてくれて樹っちゃんは訊いた。俺は勿論「ご馳走」と答える。樹っちゃんは微妙に黙った。

『……ごちそうって。例えば?』
「そうだなあ。ステーキとか、ウニとか。桜があっと驚いて喜ぶような」
『…………あのね、サエ』
「うん?」

フーン。電話の向こうで懐かしい鼻息。これは呆れてる時の樹っちゃんのくせだ。

『桜、ステーキとか大して好きじゃないでしょう?』
「あ…そう言えばまあ…そうかな」
『あんまり気張って特別なもの作ろうとする必要ないと思うのね。桜はサエが作ったものならなんでもうれしいと思いますよ』
「えっ…そうかな」
『そうなのね。それに桜の性格上、あんまりお金のかかるものは喜ばないんじゃ』
「ああ…それはそうかも」

普段から楽しそうに倹約をし、マイホーム資金ね、と言って通帳をにこにこして眺めている桜を思い出す。そうだ、金を出せばそれなりのご馳走は用意できるだろう。でも桜はいつでも特売の材料を手間暇込めて美味しくしてくれる。俺もそんなふうにしたい。

「樹っちゃん、ありがとう」
『はいはい。がんばれサエ』

温かい励ましを胸に、俺は会社帰りの足で夕方のスーパーに突入した。…そしてぼろぼろになりながらも何とか夕食の材料を手に入れた。
それから駅で目に付いた、桜の好きな花も。
ありがとうの気持ちを伝えたいと思ったんだ。





樹っちゃんのアドバイスからメニューはカレーにした。
特別なご馳走じゃないけれど桜の好きなもので、俺でも失敗のリスクが(比較的)少ないと思ったからだ。
けれどいざ料理を開始してみると予想外に戸惑う事が多かった。
野菜の切り方からして駄目だ。ガタガタの乱切りで見ただけで食欲を失う。俺はすっかり桜の作ってくれる綺麗な切り方の料理に慣れきってしまっているんだなあと少々気恥しく思った。
キッチンの引き出しを漁ると、ハートや星型の可愛らしい型抜きが出てきた。ああ、毎日の弁当に入っているハートはこれで作っているのか。思いついて俺も野菜を抜いてみる。ちょっとはましになった気がする。
カレールーは買って来たけれど、ストック食材の棚を見てびっくりした。カレーのルーが何種類も、それも全部封が開いている。スパイスの小瓶もたくさんある。桜は何種類ものルーを少しずつ混ぜてカレーを作ってくれていたらしい。「今日は手抜きでカレーにしちゃったよ」とよく言っていたが、全然手抜きじゃないじゃないか。綺麗に整頓されて清潔そのもののキッチンに立って、俺は改めて桜ってすごいなあと唸らされた。
誰かの為に料理をする。それを毎日楽しそうに続けていく。それはきっと見た目よりもずっと凄いことだ。考えてみたら俺の体の殆どは桜の作った食事で構成されている。結婚以来全くウェイトの変わらない体型を保てている事も、健康診断の結果が毎回すこぶる優秀な事も、すべて彼女のお陰に他ならない。つくづく頭が下がる。
…なんてしみじみ思っている暇もないのが料理というものだ。ぐつぐつと噴きこぼれる鍋に俺はうわっと声を出して慌てて注意をそちらに向けた。





「ただいま…」

少し疲れた様子で帰って来た桜は、部屋に入るなり「わあ」と立ち竦んだ。目を真ん丸にしているのが可愛い。

「おかえり」

抱きしめて額にキスをする。桜は小さく身じろぎをして「もう、サエは相変わらずなんだから」とくすぐったそうに笑った。抱きしめた体が冷たくて、外の空気の匂いがする。

「行ってくれれば迎えに行ったのに」
「近所だもん、大丈夫だよ」
「駄目。これから遅くなるときは絶対言って」
「あはは。わかったわかった」

…本当に分かってるんだろうな?
いぶかしむ俺をよそに、桜は「わー、カレーだあ、うれしい!」と無邪気な声を上げている。

「わあわあ、茹で卵もついてる! うれしいなあやっぱりカレーには茹で卵だよね。…あーお腹すいてきた。すっごくうれしい。帰ってきたらおかえりって言ってくれる人がいるのも、人が作ってくれたあったかいごはんがあるのもすごくうれしい。ありがとう。泣きそう」
「……そんなに?」
「うん。そんなに! それもサエがしてくれたことだから余計にうれしい。本当にありがとう。大好きよサエ」

本当に目の端に涙まで滲ませて笑うから。
びっくりしたのと慌てたのと、そんなに喜んでくれるならこれからいくらでもしてあげたいという気持ちと、とにかく愛しい気持ちがごっちゃになって訳が分からなくなった。気付いたらつよく抱きしめてキスをしていた。
…結婚3年目。未だに振り回され続けていると思う。落ち着く日が来るなんて思えない。





俺の作ったお世辞にも上手いとは言えないカレーを、桜はおいしいおいしいを連呼しながらぱくぱくと食べてくれた。
…なんか焦げた匂いがするし、いつも桜が作ってくれるカレーよりどろっとしていてしょっぱい気がするんだけど。本当にうれしそうに頬を染めて「おかわり!」と皿を差し出してくる桜を見ていると俺まで嬉しくなってくる。そうか、普段桜もこんな気持ちで料理してくれているのかな。

「桜、無理してたくさん食べてくれなくてもいいよ。俺責任持って片づけるしさ」
「何言ってんの、本当においしいよ。それにサエが作ってくれたのがすごーくうれしいんだもん。…ねえねえ、これもしかしてお星さま?」

そう訊きながら桜が差し出したスプーンには、ぐずぐずに崩れたヒトデのようなニンジンが載っていた。

「……あー、うん。まあそのつもり、だった」
「かわいい! 凝ってる!」

ぱくりと桜が口に入れたスプーンの上には、崩れた星型のニンジンと一緒にハート型のジャガイモも載っていた。すっかり溶けて原形をなくして、さすがの桜もそれには気付かなかったけれど。

…溶けたハートをこっそり食べさせてしまった。

急に乙女な感想が浮かんで妙にどきどきした。うわ、俺キモイな。
それからは何だか桜の食べる口元から目が離せなくなった。俺が作ったものが彼女に咀嚼され嚥下され、彼女の体を構成する一部になると思うと…うわなんだこれ。こんな事考えて興奮する俺って本当に変態っぽい。とても桜には知られたくない。
こくり、と動く白い喉。
桜は俺の内心を読んだかのように「うふふ」と微笑んだ。どきりとした。油で光る唇が妙に艶めかしい。

「料理ってね、特権だと思うの」
「……特権?」
「そう。大好きな人に食べてもらえる、特権。こんなに色っぽい作業って他にないんじゃないかなあ。考えようによったらセックスより色っぽいかも」
「セ…」
「なあんてね。そんな事を考えながらいつもごはん作ってるんだ、私。サエの体の殆どは私のごはんで出来てるって思ったらなんか興奮しちゃうんだよねえ。…ヘンタイっぽいね」

てへ。ぺろりと舌を出す桜。可愛い仕草だけれど正直誘っているようにしか見えない。

「桜」
「サエ。ありがとう」

思い切り夜用の低い声で名前を呼んだ俺を遮るように、桜がふわりと笑った。

「カレーありがとう。すごくおいしい。うれしい。…玄関に飾ってあったチューリップもありがとう。私の好きな花覚えててくれたんだね。六角中を思い出した。あの頃も楽しかったし今も毎日楽しくて幸せ。本当にありがとう。最高の結婚記念日。これからもどうぞよろしくお願いします」
「……覚えてたんだ…」
「当たり前でしょ。サエは私をなんだと思っているのよ」
「ごめん。でもコンビニ弁当とか言うからさ、てっきり忘れてるものかと」
「あはは」

桜は申し訳なさそうに少し眉を下げて笑い、「思ったより病院が混んでて。遅くなっちゃったからごめんね」と言った。俺はびっくりした。今日の桜の外出先が病院だなんて聞いてない。

「病院って、どこか悪いの、桜」
「ちがうの。本当に大丈夫だから心配しないで。そうじゃなくてあのね…私もサエにプレゼントをあげたかったんだ」

よく分からないけれど病気な訳ではないらしい。俺は慌てて立ち上がった椅子に座りなおした。

「…それならいいけど…。…ところで桜、その『サエ』って呼び方いい加減やめない? 君ももう佐伯なんだしさ」

桜があまりにもサエサエ連呼するものだから、結婚以来何回も言っている台詞がつい口をつく。返事は聞かなくても分かっている。子どもの頃からのくせだから今更変えられないって言うん…

「うん、そうだよね。呼び方変えようかな」
「──ええっ!?」

驚いて変な声が出た。桜が「そんなにびっくりしなくても」と笑いだす。

「え…じゃあ……何て変えるの? 虎次郎…とか?」

自分で言ってて照れる。どきどきしながら尋ねた俺(…本当に今日の俺は色々と乙女思考でキモイ自覚はある。どうか突っ込まないでくれ)に、桜は今日最上級の笑顔で信じられない台詞を放った。

「ううん。『パパ』って」

…………。
……………………。

「……え」
「だから、『パパ』。お父さんになるのにいつまでも『サエ』じゃおかしいもんね」
「……え」
「今日ね、検査してもらってきたの。ちゃんといてくれた。うれしかった。ほら」

桜がバッグから大事そうに取り出した一枚の薄い紙。ぺらぺらの感熱紙。けれどそこに写っていたのは何よりも大切な宝物だった。
世界でたった一つの尊い、新しい小さな生命。

じわりと流れ込んで心を満たす感情に、俺は今度こそ椅子を蹴って立ち上がり、桜を抱きしめた。

ありがとう。ずっと君を愛してる。


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