ふわふわと波間を漂うような、ここが現実なのか夢なのか曖昧な感覚を引き摺ったままで目が醒めた。
重い瞼をゆるゆると開く。
瞬き、ゆっくり2回。ぱちり、ぱちり。
それで少しだけ意識が覚醒した。
あたたかな闇と、ふわふわのベッド。慣れ親しんだ自分の部屋。
どうして目が醒めたんだろう?ってぼんやり思った。
「──ごめん、起こしちゃったね」
あ。目が醒めた理由、分かった。
虎次郎さんが帰って来たからだ。
彼を取り巻く外の空気の気配が、この静かな闇を揺らしたから。
「虎次郎さん。おかえりなさい」
まだ半分寝惚けたまま、私はへらりと笑った。顔の筋肉から力を抜くようにして。
接待の飲み会で遅くなった虎次郎さんの周りには、まだ夜の街の喧騒とお酒の匂いの気配がふわふわと残滓のように漂っている。「お疲れさまでした」と起き上ろうとすると優しい腕で押し止められた。
「寝てていいよ。起こしてごめん」
「……」
「遅くなってごめんな」
「……3回」
「え?」
「虎次郎さんが、帰って来てから言った『ごめん』の数です。謝って欲しい事ひとつもないのに、そんなに言われたらかなしくなるからやだ」
「……うん。そっか、うん」
虎次郎さんはちょっと驚いたみたいな、困ったみたいなかんじで少し黙った。ベッドサイドテーブルのライトの仄かなオレンジの灯りに照らされた表情は少し疲れてて、でもとても優しかった。お仕事モードじゃない、油断しきった顔。だからとてもうれしい。
この人が私の前で力を抜いてくれる事が。この人の前で寝顔を晒せる事が。
「虎次郎さんにおかえりって言えるのうれしいです。だからもう謝るの禁止です」
「桜」
どさり。私に覆い被さる格好で虎次郎さんがベッドに倒れてきた。重い。
滅多に酔わない人だけど今日は少し酔ってるのかな。疲れた顔してるし、声も低く掠れてる。
「桜」
「…あの、虎次郎さん。重いです」
ぎゅううううって抱きしめられて、私はなんとか手だけ持ち上げて虎次郎さんのスーツの背中をぽんぽんって叩いた。
「桜はあったかいなー」
「…それは、寝てたから」
子供体温って言われてるみたいでむっとして答えたら、そういう意味じゃないんだけどなって虎次郎さんは私の首筋でくすくす笑った。
くちびるが、肌に、ついて。ぞわぞわする。
「こうしてると落ち着く」
「……それは、よかったです、けど」
私はだんだん落ち着かなくなってるんだけどな。どうしよう。
虎次郎さんがこんな子供っぽい事するの珍しい。今日のお酒の席、嫌な事でもあったのかな…。あったとしてもお仕事の愚痴は滅多に言わない人だし、私には量りようがないけれど。でも。
「じゃあ甘えていいですよ」
それしかできない。言ったら、私の言葉、終わらないうちにキスでくちびるを塞がれた。いきなり深い、呼吸も奪うような性急なくちづけ。
「んっ…」
思わずぎゅっと目を瞑る。そしたら瞼と、額と、頬と、髪と、……ええととにかく顔じゅうのいろんなところにキスが降って来て。
首筋、いつもは痕がつくからって軽いキスしかしないところ、ぴりっと軽い痛みが走るくらいに吸われて思わず声が出た。
「……甘えさせてくれるんだよね?」
もう一回くちびるに触れるだけのキスをして、その触れたままの近さから。虎次郎さんがほとんど息するみたいな掠れた声で訊いて来るから。私は薄く目を開けた。少しだけ滲んでる視界。
「うん。…あまえて?」
…本当はシャワーを浴びて来て下さいって言った方がいいんだろうなあ、スーツも皺になっちゃうし。
ちらりと胸をかすめたけれど、虎次郎さんにこんな風に求められて拒む事なんてできないって、私も彼もよく分かってた。
「…桜」
ちょっと泣きそうな顔で笑って私を強く抱きしめた虎次郎さんが、再度のキスの前に「ただいま」って言ってくれたから。私は胸がいっぱいになって彼を抱きしめ返した。
「おかえりなさい、大好き」