春色にゃんこ
ほわほわほわ。春の空気はあったかで、お花のにおい。吸いこむとふうわりとねむくなる。
ぽかぽかぽか。おひさまはぴっかぴか。暑くもなく、風も冷た過ぎず、ねむるのにちょうどいい肌触りの温度。
寝ちゃおうかな。こんなところ(テニスコートの脇のクローバーの茂みのなか)で寝たら怒られるかな。でももうねむくてねむくて……。
昨日の夜だってはやくねたのに。このごろのわたしは寝てばかり。あくびばかり。
あーあ、目が覚めたら100年経ってたりしたらどうしよう……
「こら、桜!」
とろっとろにとろけた意識の向こうから、聡くんに名前を呼ばれた。
ああこれは怒ってる。それもカンカンに。
それなのにわたしはなんだかうれしくて、えへへへへと笑った。ねむったまま夢のなかで。
「こいつはまったく…」
カンカンに怒ってた声が「仕方ないなあ」ってかんじに和らぐ。
そう、わたし知ってるの。この人はわたしにとってもあまい。
怒ってるのは心配してるから。だから、ふんわりとうれしい。
きっと今、きつく吊り上げた眉毛をへにゃりと下げて困った顔で溜め息を吐いてる。目を開けなくても分かる。
そのやさしさに、いっぱいいっぱい、あまえてしまいたい。わたしの為にもっと困ってね?
「首藤ー、桜、いた?」
「お、見つかったのか。よかったな」
「あー…これは……」
「よく寝てるのね…」
聡くんの声の向こう側、もうちょっとだけ遠い位置から、テニス部のみんなの声が聞こえてきた。ちょっとだけ空気がざわざわっと賑やかになって、ふわふわのあまい空気のにおいが少しだけ変わった。仕方ない、そろそろ起きなくちゃ…とまぶたをふるわせたとき、あったかいおっきな手でそのまぶたをやわらかく塞がれた。
聡くん…?
口を開けて名前を呼ぼうとしたら、それも塞ぐみたいに顎の下をするりと撫でられた。きもちよくてふにゃふにゃしちゃう。
ふわり。
春のお花のにおい。あったかい土のにおい。みんなのうっすら汗のにおい。それから、うっとりするくらいあまく清潔な、石鹸のにおい。
聡くんのにおい。
聡くんに抱きあげられてるんだって分かった。乱暴な手つきなのにすごくすごくやさしいの。
「こらこら。またそんなに甘やかして」
佐伯くんの苦笑まじりの声がする。佐伯くんもテニス部のほかのみんなもすごくやさしくてだいすきだけれど、わたしは雨の日に聡くんと初めて会った日から、聡くんしか見えてない。ぞっこん、なんです。
「それにしても幸せそうな顔で寝てるのね」
樹くんの声を聞くとちょっとお腹が空いてきちゃう。これは条件反射みたいなもの。
「ほんっと、人がどんなに探したかも知らねえで。気楽なもんだよな」
聡くんはそう言うけれど、わたしを撫でる指はすごくやさしくて、声だってもうちっとも怒ってないのがわかる。
それにね、聡くん。どんなに探してくれたか、わたしはたぶん知ってるよ。
迷子になってないか、犬に追いかけられてないか、木の上から下りられなくなってないか…いっぱいいっぱい、わたしのこと心配してくれたよね。
聡くんの頭のなか、そんなふうに、わたしでもっといっぱいになればいい。わたしだけで。
ちょっとだけ。かなわないことをねがってみるよ。
「桜ちゃんも見つかった事だし、そろそろ部活始めようか」
「そうだな。じゃあこいつ、オジイんとこ置いてくるわ」
元気な葵くんの言葉に応えて、聡くんはわたしを抱いたままずんずんと歩きだしてしまう。
あーあ。ひとりじめの時間はおわり。みじかいな。
「オジイ、よろしくな」
「はいよぉ…」
オジイちゃんの隣のベンチに置いてけぼりされるわたし。
ふにゃんと溜め息をついたら、オジイちゃんの優しい手が頭を撫でてくれた。
「だいじょうぶ。ちゃんと迎えに来てくれるからねえ」
…オジイちゃんは。
わたしの心を分かってくれてる、みたい。ふしぎなひと。にんげんなのに。
オジイちゃんの言葉でわたしは元気を取り戻して、ぱっちり目を開けて世界を見た。
春。たくさんの花と緑。おひさまのしたでラケットを振るみんな。…六角のみんなは、ほんとうにたのしそうにうれしそうにテニスをする。
わたしはきちんと座り直して、行ったり来たりする黄色いボールを目で追いかけた。
「お、桜! やっと起きたのか?」
きらきらと笑いながら聡くんがスマッシュを打つ。見てたか?なんて得意げにわたしを振り返って。
もちろん見てたよ。いつでもあなたを見てるよ。
そう言葉にする事は出来ないから。
わたしは「みゃあ」と鳴いてしっぽをぱたんと振った。