私の日常に、少しの、だけどとても辛いスパイスが足されつつあった。
私は普通の人間だから、いつまでもその辛さに耐えられない。遠からず、降り続けるスパイスと向き合わねばならなかった。
妹シャークこと神代璃緒様のお見舞いに、私は週一の割合で行っていた。
面倒を避けるため、どこぞのチャンピオンではないけど、なるべく誰にも見られないようにしている。小児科の子供たちに会いに行って、帰りにこっそり璃緒様のお見舞いに、みたいな感じである。
同じくお見舞いに来ていたシャークさんと何回か遭遇しかけたのだが、それはもうどこかの蛇のオジサンもビックリのお忍び術で回避した。我ながら、いつ思い出してもあの手腕には惚れ惚れする。
あのファンサービスチャンピオンは、あれ以来見ていない。私の知らないときに来ているのか、はたまた仕事が忙しいのか。そのどっちかだと思っておいてやろう。
──日が陰りを見せ始めた時間帯になりつつあることを、窓から見えた景色から察した。
私はベッド脇の椅子から立ち上がり、カーテンを引いた。
振り向いたとき、包帯を巻いていても美しいと解る璃緒様の顔が目に入る。
「……何してんだろ、私」
何かができるわけでもないのに。
何かしたいわけでもないのに。
週一で来て、部屋の掃除をして、花瓶の水を入れ換えて、璃緒様にかかった埃を拭いて。
誰に頼まれたわけでもなく、彼女の関係者というわけでもない。
こんなのは璃緒様に対して失礼な、ただの道楽だ。
「……………………」
また来ます、と今まで告げられていた筈の言葉が、喉の奥でつっかえた。
私に何かができたわけじゃない。
時間軸的に、Wと璃緒様のデュエルは止められなかった。それをシャークさんに警告することも不可能だった。
けれど、考えてしまうのだ。
私がもう少し来るのが早ければ、トロンの復讐を止めることは無理でも、神代兄妹とWの確執くらいは防げたんじゃないか、なんて。
──そんな、どうしようもないことを。
知っている。
この思考は、救世主気取りの偽善者のそれだ。
みな幸せになれと祈りながら、しかしそれだけで誰を救おうともしない私は、一人ぼっちの愚者に過ぎない。
「──……また来ます」
ようやっと言葉を吐き出せた。
眠り姫は応えない。まだ応えてはいけない。
デッキの所在だけ確認して、私は借りていた椅子を片付けた。璃緒様に布団を掛け直してから、病室を出る。
早く時が過ぎればいいのに。早く彼らに安穏が訪れればいいのに。
目の当たりにする悲劇は、考えていた以上に私の胸を締め付ける。
この世界には、強い人達が多すぎるのだ。
ハルトとの夕食を終え、あてられている部屋に戻る。
ハルトとの夕食は、私が一方的に話題を吹っ掛け続けるだけの時間となる。彼が口にする言葉はせいぜい「うん」か「そうだね」か「へえ」ぐらいだ。
聞き流されているのかと思い、黙ったときもある。すると「今日は喋ってくれないの?」と言われたから、たぶん彼も楽しんでくれている……筈だ。世辞ではない、と思いたい。
夕食を終えると、ハルトはふらりと姿を消す。
どこに向かっているのか、おおよその見当はついている。だが、止めることはできない。いまハルトを止めても、それは真に彼を助けることにはならない。
それでも悔しくて、一度は声をかけた。「今日は一緒に居てくれない?」ハルトは光のない目で見返してきた。それから、黙然と去ってしまった。無言の拒絶だった。
自分の無力さが恨めしい。
暗い気持ちのまま部屋に入ると、突然強い逆風に見舞われた。
今日は風の強い日だったし、この部屋はハートランドの高層に位置する。風が吹き付けても何ら不思議はないが、それは窓を開けていたときの話だ。私に窓を開けた覚えはない。
ま、まさか泥棒!?
こんな高い所まで登ってくるなんて、どれだけガッツのある盗人なんだ! 「今はこれが精一杯」って、私の恋心が盗まれたらどうしよう!?
──瞬間、そんなふざけた思考をフルスイングでぶっ飛ばす光景が目に飛び込んできた。
ハートランドシティを一望できる窓を構成する硝子は、無惨に破砕されていた。部屋中に散った硝子の欠片の海に沈むようにして、個性的な髪型のヒトが倒れている。
──床の所々には、赤いシミがあった。
身体中の血液が、瞬間的に氷結したような錯覚に襲われる。
「──カイトさんッ!」
考えるより早く駆け寄っていた。
俯せに倒れているカイトさんを抱き起こす。その際、彼に負担を与えないように細心の注意を払う。
何があったのか、なんて推測する余裕は私から逆風と共に吹き飛んでいる。ただ何とかしないといけない、という使命感めいたものだけが胸中を占めていた。
カイトさんは傷だらけの血塗れにくわえて、気絶していた。定期的に胸が上下していることを確認し、わずかに余裕が己に帰ってくる。
いつも彼の傍にいるオービタルはどうしたのだ。こんな状態のカイトさんを放置しておくなんて、スクラップにされても文句が言えないぞ!
初デュエルの日以来、ドロワさんには私がろくに物を持っていないことがバレている。「良いデュエルだったから、プレゼントだ」とうっかり惚れてしまいそうになる台詞と共に与えられたDゲイザーをポケットから取り出し、私は彼女に連絡を取ろうとした。
その腕を掴んだのは、弱々しい、しかし誰よりも強いだろう手。
「……やめろ」
「か、カイトさん……」
いつの間に意識を取り戻したのか、上質の宝石が私を映していた。
「でも、そんな怪我を……!」
「オービタルが直に戻る。心配は無用だ」
事も無げに、カイトさんは私から離れて身体を起こそうとする。それがフリであることを直感した私は、思わず彼を押し止めた。その弾みで、カイトさんは私の膝に倒れ込む。
……こんなモヤシ女に押さえられて、何が心配は無用、だ。
「な、何をする!」
目を見開いて怒鳴ったカイトさんに、反射で言い返す。
「それはこっちの台詞だ! そんな身体で動こうとするな! オービタルが来るなら、来るまで大人しくしててよ!」
まさか私が言い返すとは思いもしなかったのだろう。カイトさんは瞠目してから、しかしすぐに調子を取り戻した。
「何故俺が貴様に命令されなければならない!」
「心配だからだバカ! カイトが倒れたら、もうカイトだけの問題じゃない! ドロワさんもゴーシュも──ハルトも悲しむだろうが!」
──私だって。
弟の名を出したのが効いたのか、カイトはぐ、と言い淀んだ。このブラコンめ。
それでもまだ己の無事を主張しようとした彼に、私は言葉の穂を接げる。
「……このことは、誰にも言いません。だから、オービタルが来るまで大人しくしててください。──お願いします、カイトさん」
ふ、と彼の抵抗が軽くなる。
「……誓うか」
「私のデッキでも掛け金にしますか?」
「……ふん」
カイトさんはようやく大人しく私に身を委ねた。
そのことで私も肩の力が抜ける。
丁度そのとき、部屋の扉をぶち破って自立型支援機械──もとい、オービタルが現れた。……後で直してくれると信じよう。
「カイトサマ──! ヤヤッ、オマエハ居候女! 何故ココニ!?」
「何故も何も、ここは私が借りてる部屋だし……じゃない! オービタル、早くカイトさんを!」
「オマエニ言ワレズトモ解ッテイル!」
担いでいた救急箱を開け、オービタルは機械ならではの精密さでカイトさんの応急処置を済ませていく。カイトさんをすぐに動かさなかったのは、応急処置の為だったのか。
私は医療の知識を持っていない。怪我をしたら絆創膏を張る、程度のことしか私にはできないのだ。こんな大怪我に対してどう処置をしたらいいのか、皆目見当もつかない。
オービタルが処置を終えるまで、私は何もできず、呆然としているだけだった。
「応急処置、終了!」
「……オービタル。カイトさんのこと、お願い」
「オマエニ言ワレルマデモナイ!」
とても機械とは思えない繊細な手つき(コードつき?)で、オービタルはカイトさんを担ぎ上げると、足早に部屋を出ていった。
風が吹き付ける部屋に残されたのは、私だけとなる。
──カイトさんが伏しているのを目にしたとき、底無しの恐怖を覚えた。
このヒトを失うんじゃないか。このヒトが死んでしまうんじゃないか。そう思うと、怖くて恐くて仕方なくなった。
結局は、そういうことだ。そういうことだった。
とても単純な話だった。
「──私、何を悩んでたんだろ」
カイトさんみたいに賢くもない私が頭を使ったって、ろくな答えが出る道理がない。
いつだってバカな私は、考えるより先に動いていたじゃないか。動かなきゃ、私じゃないのに。
カイトさんが、シャークさんがみんなが傷付くことを私には止められない。彼らが進む道は常に茨の道で、傷を負わねば進めないのだ。
だけど、その傷を減らすことぐらい──弾除けの盾ぐらいになら、私にだって務まる筈だ。
助けるなんて烏滸がましい。これは私のエゴだ。ワガママだ。私が勝手にやる、ただの道楽だ。
暗く、広い部屋だった。
まともな照明は一つもないくせに、あちこちに設置されたコンピュータの画面が光源となって、室内をほの暗く照らしていた。
その中心に、目的の人物はこちらに背を向けて佇立していた。
「──Dr.フェイカー」
この場所は、ハルトから聞いた。彼は理由を訊ねることもなく、正確に答えだけを教えてくれた。
世界に称賛される天才が振り向いた。二人の息子たちどちらにも似ていないその顔立ちに、私は知らず緊張してしまう。
「……初めまして。御挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません。カイトさんにお世話になっている、少女Aと申します」
「カイトが拾ってきた捨て猫か。ふん、貴様に用はない。さっさと消えるがいい」
……この高飛車ぶりは、カイトさんに通じるものがあるな。
しかしやはり、Dr.フェイカーは私のことを知っていたようだ。そう思うと、覚悟も決まる。
「ナンバーズのことを知っている、と私が言ってもですか?」
「……何?」
路傍の石ころを見る目から、奇怪なものを見る目へとDr.フェイカーのそれが変化する。
逃げたくなる心を殺し、私はあえて一歩前に出た。そしてにっこりと笑ってみせる。
「私はカイトさんに恩を返したいんです。貴方たちの力にならせてください。──私に、カイトさんと同じ力をください」
カイトに同情しているだけだ、ただの若気の至りだ、いずれ絶対に後悔する。
頭の中で冷静な私が酷評を飛ばす。それを向かいの私が一笑に伏した。
だからどうした。
いま彼に手を貸したいと思う心は本物だろう。それが偽善でも同情でも恋慕でも義憤でも、知ったことか。
後悔なんて、後で思う存分すればいい。