10. 終自分の愚かさには、ほとほと愛想が尽きた。 余分なモノを背負い込んだ。 そのくせ、守りたかったモノは見殺しにした。 愚図で、鈍間で、優先順位も守れないほど馬鹿だと思う。 私の足掻きは何を成すことも出来なかったわけだ。 ただ逃げ出しただけ。ただ喚いただけ。ただ縋っただけ。 死にかけの蟻だってもう少し天晴な最期だ。 我ながら情けなさ過ぎて泣けてくる。うっかり死んでしまいたくなる。 やめたいなあ。捨てたいなあ。もう何にも考えたくないなあ。 ―――楽に、なりたいなあ。 ――それでも、この手に握ったモノを離さない理由は何だろう。 これが未練というものか。 それとも執着というものか。 ……いや。これは、 私はとっくに手から力を抜いていた。握ったそれをいつ失くしても不思議じゃなかった。ただ、私の手の上から誰かが押さえてくれていただけだ。 ――諦めてはいけない。 ――光を見失ってはいけない。 ――希望はいつだってその手にある、と。 うんざりするほど優しくて、泣きたくなるほど厳しい声が肌を伝って聞こえてくる。 既に廃墟と化した闘技場に電灯はない。木漏れ日のように差し込む外部の光がわずかに屋内を照らすだけだ。クラウスさんが上がっていたときは目を焼かんばかりの数の明かりに満ちていたリングも、いまは薄暗く、朽ちていくだけの様相を呈している。 その傍らで、私は因縁の相手と遭遇していた――いや、待ち構えられていたというべきか。 「――心にもないことを」 震えそうになる心と声を、精一杯平然とさせる。ただの見栄だと分かってはいても、そうせざるを得ないのだ。怪舌の効果を少しでも増幅させるため、というのもあるが、何より私自身が折れてしまわないように。 私より一歩前に出ていた少年に無意識に手を遣り、さりげなさを装って後退させる。 血の繋がった父親は右手に持った紐のようなものを持ち上げて、肩を竦めてみせた。紐は長く、奴の背後にいる怪物の首元にまで繋がっていた。まるで飼い犬だと嘲笑いそうになって、それは揶揄にもならない事実なのだとすぐに気付く。あの男は利用できるモノなら怪物だろうが実の子だろうが使い捨てる人間だ。 「さすがに心外だね、小兎。私はおまえを大切に思っているとも、本当だ」 「道具として、でしょう?」 「そうとも。だからおまえは傑作だった。自分の意義を正しく認識していたからね」 男は軽く首を振り、私の傍ら――白い少年に冷たい目を差し向ける。 「――そこの出来損ないとは、雲泥の差だ」 沸騰するような感覚が全身を満たす。それが憤りによるものだと気付いたときには、鬼の力を振るっていた。 「【圧殺】!」 空気が瞬時に凝縮される。空間そのものが意思を持ったかのように、男は一人でに圧縮され、一秒後には絶命している。私の怪舌は世界を局所的に上書きする能力だ。たかだか人間がそれに抗える道理はない。 「やれやれ。まだ反抗期を引きずっていると見える」 ――しかし。男は悠然と息をしている。ただ少しばかり対象周辺の重力が増しただけで、彼の身体には欠損どころか掠り傷一つ見られない。呆れ果てたと言いたげにかぶりを振った。 「できれば対話で解決したかった――これは本心だ。何せ道具を進んで壊す持ち主はいまい」 「……そうね。初めておまえの本音を聞いた気がする」 「そして、おまえの意思が尊重される最後の機会だった」 寒気がするほど穏やかな笑みを男は浮かべた。 同時に、私の真横で鬼の音が響かせられる。 「【転移】」 「な――!」 驚きの声を上げるよりも早く、私の足場は変化していた。 リング上へと一瞬で移動させられたのだ。耐久年数が限界を待つだけの足場が、突然の重量に軋んだ音を奏でる。思わず体幹を崩し、床に手をついた。そんな私を愉快気に目を細めて、男は場外から眺めていた。 唯一、怪物と向き合っていることだけが変わらない。 少年は位置関係も調整したのか、怪物と私の間に佇立していた。その口元から垂れる血を乱暴に拭う。 「……何を驚いてるの。言ったろう、ボクは貴女の 「痛く――ないの」 「たかだか骨か内臓が一つやられただけ。鬼の力を振るうには破格の値段だと思うけれど」 骨か内臓――身体の内側が、鬼の音を奏でる度に朽ちていくというのか。 そんなのは命を削っているに等しい。自分の容量さえ見失わなければほぼ無限に等しい私の怪舌とは比べ物にならないぐらいの出来損ないだ。だというのに、彼は平然としている。眉一つ動かしはしない。 怪物が荒い呼吸を響かせる。 あれの持ち主は既に手綱を手放した。いつ襲い掛かってきても不思議ではない。 それでも私にとっては、目の前の弟が流した血の方が重要だった。 「……いつからあの男と組んでたの」 「分かっているくせに訊くんだね。……いいよ、姉さん。教えてあげる。 「……だから、あんな会場に商品として潜り込んだの?」 「そうだよ。貴女はボクを助けるだろうと、父さんが睨んだ」 「もし――私が助けなかったら?」 そんなことは有り得ない。彼が弟であると看破した瞬間、私は何を置いてでも救助しただろう。 彼のいう計画は、それを念頭に建てられている。実際間違ってもいないし、事がその通りに運んだ以上、正しい見立てだったといえるだろう。しかし、もし、私が気付かなかったら、どうなっていたのか。 「ボクと貴女は出会わなかった、父さんは別の策を講じた。――それだけだよ」 ――それだけ、だと。 自分の運命を、未来を、そんなに簡単に切り捨てるのか。 血の繋がった兄や姉を殺してまで生き延びた、その先を。 私の半分も生きていないだろう子どもが、そんな風になるよう仕向けたのは―――― ――ニタリ、と男の笑みが視界を掠める。 「ア。ア゛――――!」 私が再度男に怪舌を差し向けるよりも早く、怪物に限界が訪れた。 八本ある巨大な腕を振り回し、その巨躯に相応しい重量感溢れる足取りでこちらへと駆け抜けてくる。頭部らしい部位に接着している無数の眼球から推すに、目標は私。足元にいる少年になぞ目もくれない。 そして少年も動かない。踏み潰されるのを待つかのように、背後の怪物を一瞥もせず、じっと私をその双眸に映している。 「ば、か……!」 咄嗟に少年に走り寄り、彼を抱えて飛び退いた。リングを覆う錆びついた鉄網に背中からぶつかる。 怪物との正面衝突自体は避けられたものの、ただ掠っただけで凄まじい衝撃だった。あの図体に特殊な魔術でも付与されているのか、上着は端からボロボロになって崩れ落ちていった。もしまともに肌がぶつかっていたら、今頃私は灰塵に帰していたのだろう。 鉄網を崩壊させながら、怪物がこちらを振り返る。 「……どうしてボクを助けたの?」 私の腕の中で少年が口を開く。 「ボクも貴女を殺すのに」 「え……」 「【氷雨】」 背後に冷たいものが無数に出現したのが、感覚的に分かった。振り返るだけ時間の無駄。地面を蹴り、その場から転がった直後、それまで私がいた場所に大きな氷柱が幾つも突き刺さっていた。 「何で……っく!」 問い質すよりも早く、少年は私の胸倉を蹴って逃げ出した。 「ナ゛―――マ゛テ゛――――!」 身軽な動きで床面に着地。事も無げに吐血した少年は、背後から迫りくる怪物を警戒する素振りもない。 ――あの怪物は私を狙っている。その道中で何を踏み潰そうが歯牙にもかけないことだろう。たとえこの少年を巻き添えで殺したとしても、きっと同じことだ。 「分かっていることを訊くのが好きな人だね。それとも言われないと分からないぐらい鈍いのかな。……鬼はそんな人間が好みなのかな。やっぱり人間とは思考回路からして別物なんだ、アッチ側って」 何でもいいか、と少年は白と赤を乱雑に振る。 「 「――【転移】!」 今まで瞬間移動の類を怪舌で試したことはなかったけれど、弟に出来て私に出来ない筈がない。私と彼を対象に、リングから場外へと移動させる。怪物がまた標的を見失い、鉄網へと激突した。 「【転移】」 直後、私たちはまたリングの上へと戻っていた。 ハッとして見遣れば、怪物の足元で少年が血を吐いている。 「逃げようったって無駄だよ。何度でもボクが連れ戻す。そして殺す」 「何で……そこまで……!」 「――何で何でと五月蠅いヒトだね。【剣舞】」 少年の背後に剣の大群が出現する。それらは一瞬銀色の光を煌かせた後、殺意を伴って私へ斉射された。 「【大盾】!」 無から物質を創造する。虚空から生まれ出た直径三メートルほどの円い盾が剣の雨を弾き、甲高い金属音を連続させた。音の乱舞に紛れるように、巨躯が惨たらしい叫声を闘技場に響かせる。 「ア゛ナ゛―――タ゛テ゛――――!」 「【偽眼装填】――!」 剣の雨はやむことを知らない。盾を捨てるのは愚策だと判じ、いつか習得した神々の義眼の偽物を眼窩に組み込ませる。いつ入れても慣れない神々の世界にレオは耐えているのだから、と自分に言い聞かせてどうにか正気を保った。眼球が熱を持ちつつあることを知りながら、それでも視界を操作する。 操作するのは私の視界じゃない。怪物の視界だ。 「 怪物の眼球は数え切れないほど多かった。それぞれが一斉に別方向を見遣れば、当然司令塔は混乱する。四本の足を失敗した蛸みたいにもつれさせながら、怪物は少年の手前で横転した。 同時、義眼の偽物が眼窩から消失し、私は元の眼球を取り戻す。神々の義眼を再現するなんていう荒業は、いまの体力が尽きかけた状況ではきつすぎて長持ちしない。 だけど、そのわずかな時間だけで十分だった――怪物の正体を見抜くには。 あの男は本当に――いったいどれだけ外道に堕ちるつもりなのか。 「……また、ボクを守った」 ふいに盾と剣の不協和音がピタリと止んだ。 痛み始めた頭に知らず手をやりながら、私はそっと盾の後ろから歩み出る。 「まだボクが敵だって分かってない、わけはないよね。……何を考えてるの?」 獄炎のような炯眼が私を睨みつけていた。その目から読み取れるのは、憎悪。怨念。ほんの少しの動揺。 少年がまた口元の流血を袖で拭う。彼の衣服はすっかり血塗れになっていた。 私の弟――私が何に代えても守りたかったモノ。もう世界に一つしか残っていない。 「きみを助けたい」 「ハ―――ハハハ! 言うに事を欠いて、そんな世迷い言!? 貴女さえいなければ――貴女さえ逃げ出さなければ、ボクも他の兄弟たちもこんな目に遭わなかったのに!?」 少年が血を撒き散らして哄笑する。 「ボクが生まれるまでに何人の兄弟が死んだと思う!? 姉が一二四人、兄が一五六人! 貴女がほとんど殺した! 貴女が出て行った後、残りはボクが殺した! だって、そうしなければ鬼は宿らない! 何人殺しても平然と生きているようなイカれた神経の持ち主でなければ、鬼の器足り得ない!」 私は黙って、それを聞いている。 「ボクらはとっくに家畜以下に堕ちているんだ、今更善人ぶるなよヒトデナシ! 貴女もボクも父さんの為に生み出された鬼だ。なら、父さんの役に立たなければ鬼の価値を立証できない。ボクの苦しみが無意味になる。 反論する資格が、私にはない。 姉弟なのだから当然かもしれないけれど、私と彼の思考は実によく似ていた。 ただ、手にした術が異なっていたというだけ。 目指した場所は鏡像のようにそっくりで、だから同じ道を辿れなかった。 ――一度だけ。「そうだね」と首肯した。 「だから、きみを助けたい。何を引き換えにしてでも、あの男から解放したい」 「……まだ、そんなことを……!」 「兄弟たちの死を無駄にしたくないのは、私も同じよ」 起き上がろうともがいている、横転した怪物を指差す。 もう二度とヒトとしては生きられない、救われることのない生き物だ。 「アレは―― 少年の全身が目に見えて硬直した。紅玉が動揺のままに震えている。 「……嘘だ、どういう……」 答えるために口を開きかけて、何故かそのとき、スティーブンのことを思い出した。 少年目掛けて攻撃してきたスティーブンを、私は心底軽蔑した。それが大きな間違いだったことを今更になって悟った。いつかザップに言われた『アホ』の言葉をもう否定できない。 ――きっと彼は、私の為を思って行動してくれたのに。 「さっき だとしたら――やはり、全ての元凶はたった一人に行き着いてしまう。 私は改めて少年から視線を外し、場外で脂下がった面を晒している男に目を向ける。 「ついに死者をも侮辱するのか――この下郎め」 「侮辱? いいや、有効活用だとも。再利用のために、いまは圧縮の最中にあるというだけのことだ。ついでにきみを痛めつけるために使ったが――まあ、それは失敗に終わったようだ。所詮余興ということか」 圧縮、だと? この男は何を言っている。 観客席に座していた男が悠然と腰を持ち上げ、リングに立つ私を見下ろした。 彼の節くれだった手が、リングでもがく怪物を指し示す。 「最後の問答といこう、小兎。それが生まれた理由は何だと思う?」 怪物が生まれた理由。 そんなもの、私が分かるわけもない。だって私はこんな化け物を作ろうとは思わないし、ましてや兄弟の死体を材料にするという発想すら浮かばない。 「分からないか」 だんまりを決め込む私に対し、男はおもむろに息を吐く。 「 「――――――は?」 この男は――いったい何を言っている? 「鬼の力が振るえる者には、適合率で力の分配の優先順位が違ってね。当然第一位以外はチカラを振るう度に自らが損傷を負う。そこの出来損ないみたいにね。現世の第一位はきみというわけだ、小兎」 足音を大袈裟なほど奏でながら、男はゆっくりとこちらに近付いてくる。 「私以外は知らないことだが、この分配順位は繰り上がり方式なんだ。一定条件に当てはまる者がいなければ、そもそもチカラを振るえる者は出てこない。これが百年に一人しか鬼が生まれないとされている理由だ。なかなかいないんだよ、鬼がお気に召す適合者はね。それを私は質より数の方針で解決した。きみと出来損ない、当代二人の 男がリングに上がってくる。 倒れ伏している怪物の肌に手を当てる。 「さて――鬼の血が流れていない者に、鬼は宿らない。これは私にとって最低の難題だった。しかし今は障害にもなりはしない。私にも同じ血が流れるようにしてしまえばいいのだからね。後は同じ時代に鬼に憑かれた自分より上の者を殺し、自分を第一位に据えてしまえばいいだけのこと」 ――ぱりぱり、ぱり。 何の音かと一瞬訝しんだが、正体はすぐに発覚した。怪物の肌が、肉が、骨が障子紙のように剥がれ、男へと上書きされていくのである。ホラー映画なら悪霊に取りつかれているシーンそのもので、しかし当事者の男はこの瞬間を待ち望んでいたかのように快哉を叫ぶ。 「ようやっと―――長年の悲願が果たされる。 怪物の血肉は兄弟たちのモノで出来ていた。それらは私に及ぶべくもない完成度のそれでしかないが――もし、不足しているパーツを相互に補うかのように埋め足していったとしたら、どうなるのか。 死んだ兄弟たちの数は、私が把握しているだけで三百弱。それだけあれば、急ごしらえの器を作るには十分過ぎるのではないか。鬼の輪郭をただのヒトがなぞるには、過不足なさすぎるのではないか。 「ああ、そういえば――もうそれは要らないな」 男はみるみるうちに人間――いや、人型ですらなくなっていく。膨らみ、萎み、分解と再生を繰り返す。 その間に少年を見遣った影から、ノイズ混じりの声が続いていく。 「きみを釣る餌として連れてきたが――やはり、大した成果は出せなかった。所詮出来損ないは出来損ない、期待するだけ無駄だったか」 血塗れの少年が呆然と喘ぐ。 「とう、さ―――」 「万が一、おまえが私より上の順位だと困るからな。【し】――」 ね、と続けられるその直前、闘技場の屋上が轟音を立てて破砕された。 赤々しい夕陽が待ち構えていたように場内へと差し込んでくる。 私は咄嗟に見上げて、瓦礫にまぎれて降ってくる複数の影に目を見開いた。 「 「 「 クラウスさん。スティーブン。ザップとツェッド。 ライブラの前線を担当する牙狩りたちが勢揃いで、強力無比な必殺技を変貌しつつあった男へと集束させる。並の 衝撃で舞い上がった砂煙が場内にけぶる。その奥から柔らかな声がする。 「やれやれ――余計な繋がりは断ち切っておいたと思ったんだが」 「な……!?」 あの男――どうしてまだ生きている。 愕然としたのは私だけでないのが空気で伝わってきた。 「参考までに聞いておこうか、ライブラの諸君。どうしてここに? 君たちにとって、小兎はもはや用済みだろうに」 「仲間が泣いていた。それを目撃したのもまた、私の仲間だ」クラウスさんの声だった。「それはもはや世界の危機に等しい大事である」 「なるほど、気持ち良い返答だ。だからこそ相容れない」 視界を隠していた煙がゆるやかに落ち着いていく。 クラウスさんの豪腕を受け止めていたのは、もはやヒトではなかった。辛うじて人型ではあるものの、頭部には牛のそれに似た角が生え、全身は赤黒く染まっている。その全てが以前このリングで見た脅威を私に彷彿とさせた。 「【偽眼装填】――」 反射的に義眼を当て嵌める。平時でさえ一日一回が限度だった筈のそれを、この極限状況下で短時間に二回。巻き起こるひどい頭痛に思わず歯を食いしばった。 壮絶な赤い光が異形の周囲に浮かんで見えた。 それはもはやあの男が人間ではない、何よりの証拠だった。 「――まさか」 「 一同の驚愕に、異形がほくそ笑んで両腕を翼のように広げる。 「我が誕生を祝福したまえ、諸君。君たちは創世記の生き証人となるのだ」 | → 戻る |