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9. 嵐


「おまえさ、結構アホだよな」



 開口一番ザップにそう言われ、私の顔は「おはよう」と言った形のまま固まった。

 代わりに、身体が動いた。ザップの足を払う。軽く跳ねられて避けられる。足の方向を九〇度変更、ザップの股間を蹴り上げた。



「うぐぉおおぁァああ……ッ!」

「で、朝一番に失礼なことを言った理由は?」



 股間を両手で押さえながら床を芋虫のように転がるザップから目を離し、ソファーに座って歓談していたレオとチェインに顔を向けた。

 いやあ、とレオが誤魔化すように笑う。細目なのでいつも笑っているように見えるが、案外彼は表情が豊富だ。



「小兎さん、実家に妹さん達置いてきてるじゃないですか。それって不安じゃないのかな、みたいな話をですね……」

「してたわけだ。ザップと」

「私も聞いたことないな、と思って」



 チェインが同意するように頷いた。

 ライブラの執務室には、大体いつものメンバーが集まっていた。レオ、ザップ、チェイン、ツェッド……奥の執務机で事務仕事をしているクラウスさんとスティーブン。あと、影のように主人の傍に控えているギルベルトさん。

 私はチェインの隣に腰を下ろした。そうだね、と彼らに対する返答を探す。



「私、まずHLに来た目的が妹と弟たちを助ける為だしね……そこから話さないといけないから長くなるけど、聞きたいの?」

「うん」

「小兎さんだったら、怪舌で大元おおもとをやっちゃった方が早いじゃないスか。前から不思議だったんですよね」



 チェインが首肯し、レオは敵をやっつけるアクションヒーローみたいなジェスチャーをした。

 生い立ちや過程は一通り話したけれど、そういえば根っこの部分は一度も口にしていなかった。

 ギルベルトさんが、いつものようにさりげなく緑茶グリーンティーを出してくれた。お礼を言ってから、ありがたく頂く。……まさか今更麦茶の方が好きだとは言い出せまい。



「あ、嫌だったら話さなくていいんすけど」

「いいよ、大したことじゃないし。……レオが言ったように、大元を殺ろうとしたよ。昔ね。でも失敗した」

「何で?」

「私の怪舌、恐怖心を抱いた相手には効果が薄いんだよね」

「初耳ですよ!?」



 愕然とするレオとチェインに「わざわざ言うことでもないかなって」と笑ってみせる。



「いやいや、言っといてもらえた方がこっちも対処しやすいですし! 怪舌って、俺の義眼より万能なのかと思ってた……!」

「いや、たぶん、万能性はレオの義眼が上だよ。私のは制約も多いしね……」



 ……それで引き下がってもらえたことにホッとした。今まで私が弱点を自ら晒さなかったことを、彼らが深く考えないことを祈る。

 ようやく最近、なのだ。
 彼らを信頼できるようになったのは──傷つけたくないと思えるようになったのは。

 切り捨てたくないと、思うのは。



「話を戻すよ。……その大元って、私の父親だってのは皆知ってるよね」



 レオとチェインが首を縦に振ってみせた。



「……父親だから、なのかな。もしかしたら物心つかないときから虐待されてたせいかもしれない。とにかく、アイツに怪舌はほとんど効かなかった。……たぶん、無意識に恐怖心を抱いてたんだろうね」



 牙を剥いたとき──兄姉たちの生首が立ち並ぶ光景を見たとき。

 それは、私が行ってきたことの愚かさを知ったときであり。
 それが初めての暴走でもあった。

 詳細は割愛し、私は話を続けた。



「もう家にはいられなかった。アイツの命令に従うことも、できそうになかったし。……警告だけして、すぐに飛び出した。世界中を数年間逃げ回って、HLのことを知って──もしかしたら、此処ならあの子達を助ける術があるんじゃないかと思ったから」

「……妹さん達も一緒に連れてくるとか、考えなかったんすか」

「何せ、何十人といたからね。一人や二人ならきっとそうしただろうけど──……」知らず口元に自嘲が浮かんだ。「……私がいない方が、あの子達の生きられる可能性が高かったし」

「? それってど──」

「で、こっからHLに来た目的になるよ」



 チェインの言葉は聞こえなかったフリをして、わざとらしく話を戻した。



「異界と繋がってる此処なら、あの子達を助けられる術があるんじゃないかと思った。怪舌のこともあったけど──可能なら、私の思考なんて及ばないぐらい奇想天外な方法が一番よかった。それぐらいの方が、あっさり片がつくような気がしてたから。……まあ、奇跡を求めてたんだろうね」

「…………」

「それで、結果としては──」



 言いかけて、……余計なことまで思い出した。
 あのときのすったもんだを忘却の彼方へ追いやりつつ、私は言葉の穂を接ぐ。



「──奇跡それが、起こった。だから、アイツはいまあの子達に手が出せない筈だよ。……アイツも困るだろうしね、あの子達がいないと」

「どうしてっスか?」

「私の父親が求めてたのは百鬼の怪舌だった──だけど、その鬼は百年に一度しか生まれないとされてる。私たちの家系にしか生まれない、ともね。
 勿体ぶらずに言えば、アイツが私以外の鬼を欲しがっているなら──あの子達を生かしておいた方が、鬼がいつか手に入る確率が高いから。数打ちゃ当たるってことよ」



 実際、その手法を取った男だ。この考えにはすぐ至るだろう。

 私以外の鬼を、この先も欲するなら──だが。

 あの男も人間だから、長生きしても百年とちょっと。その間に鬼を求めるなら、いま私を手中に置くしかない。

 だから、あの男がいま取れる策は二つしか考えられない。私を狙ってくるか、弟妹たちを生かし、未来に期待するか。そのどちらにせよ、あの子達に危害は及ばない。

 そう説明してから、私は軽く笑った。



「不安がないって言うと嘘になるけどね。でも、以前よりはずっとマシだよ」

「……俺、これから小兎さんと一緒にいるときは、もっと周りを警戒します」

「……私も」



 何故かレオとチェインが目元を押さえて俯いた。何で。そのとき、両側から肩を掴まれた。



「小兎さん、これからはなるべく一緒に行動しましょう……!」

「おばえ……ぞういうことばもっとばやく……!」


 これまた目元を押さえているザップとツェッドだった。何で。何で皆そんな風になってんの。っていうかツェッドはともかく、ザップがものすごく気持ちの悪い顔になっている。



「いや、え、別にいいよ。っていうかザップ気持ち悪い」

「んだとゴラァ!」



 ツェッドを間に挟んでザップと喧嘩する。互いに口汚く罵りながら、手足が伸びたり、時には怪舌や血法が出る。ザップには同情されるより、こっちの方が余程いい。

 内心楽しく思っていたら、突然チェインがザップの顔に靴をめり込ませた。彼の上で直立するチェインと目が合い、同時にサムズアップした。



「──な、にを意気投合してんだクソアマ共ッ!」



 ザップが腕でチェインを払い、足を振って靴を私に飛ばしてきた。それを盾代わりにしていたツェッドが叩き落としてくれる。



「女性にその言葉遣いは心底どうかと思います」

「何だ魚類! おまえそっち側につくのか! あァん!?」



 ザップはもはや誰にでも喧嘩腰だ。ツェッドがぴくりと眉を動かす。

 ぱしゃりという音がした。私たちが揃ってそちらを見れば、発光。後にレオがカメラを構えていたのだと解る。



「あ、気にせず続けてください。何か良い絵だったんで、つい」



 ──直後にレオもこの騒ぎに巻き込まれたのは、言うまでもない。










「──楽しそうだねぇ」



 高層ビルの屋上には、強風が吹き荒んでいた。

 そこに、人影が二つ。
 大きなものと、小さなものだ。

 彼らは同じものを眺めていた。人種も立場も異なる四人に揉みくちゃにされている彼女を、じっと見つめている。

 楽しげに笑う、彼女を。



「君が苦しんでいる間にも、あの子はあのように笑っていたんだろうね」

「…………」

「憎いかい? それは当然の感情だ。何もおかしくはない。自分が苦しんでいる最中に他人が楽しんでいたら、誰しもそう思うさ」



 小さな人影が踵を返した。強風に煽られることもなく、確かな足取りで歩いていく。



「彼女を殺したまえ」



 大きな人影はまだ彼女を眺めていた。

 人影の口角には、笑みがあった。感情の色を読ませない、不思議な笑みだ。



「それこそが──君の苦しみが報われる、ただ一つの方法なのだから」



 屋上に残された人影は、一つとなった。








 ザップはレオとツェッドを伴って、昼食を摂りに行った。チェインは今日は人狼局の同僚と約束があるらしい。

 私は持参したパンを食べ終えてから、執務室で事務仕事に取り掛かっていた。

 クラウスさんやスティーブンが携わるような重要度の高い書類には手をつけさせてもらえないが、用具管理等の書類は許可が下りた。だから、その辺りの事務処理だ。

 私はザップやツェッドのように荒事に特化しているとも言いがたいし、レオやチェインのように唯一無二の能力でもない。怪舌は確かに利便性は高いが、他の方法を使っても結果は再現可能なのだ。

 だから少しでも給料分の仕事をしたければ、こういうこともするしかない。強制されたわけではないけど、何となく私がやりたかった。



「小兎、よかったら」



 そう声をかけられて、ハッと顔を上げた。カップを二つ持ったクラウスさんがそこに立っていた。

 彼の手は大きいから、珈琲の入ったカップがやけに小さく見えた。だけど私の手に収まってしまえば、それはあくまで錯覚に過ぎないと解る。



「ありがとうございます。クラウスさん」

「あとどれくらいで終わりそうだろうか?」



 どことなくソワソワした言い方に、ははあ、と胸中の私がニヤリと笑う。



「そうですね、一時間もあれば終わるかと。……もしよければ、それからプロスフェアーに付き合ってもらえませんか?」

「! 勿論だ!」



 クラウスさんの見えない尻尾がぶんぶん振られているような気がして、私はニヤニヤ笑いを堪えるのに必死だった。

 プロスフェアー。
 チェスと将棋の発展系と称される、異界の盤上遊戯ゲーム

 ──先日クラウスさんからプロスフェアーを教えてもらってから、こういったやり取りは何度か行われている。

 ザップに信じられないような顔で見られる程度には、私はこのゲームに適正があったらしい。まだまだ素人の域を出ないが、クラウスさんの暇を潰せる程度にはなった。

 クラウスさんも、顔見知りとプロスフェアーができることを喜んでくれているようだ。今までライブラのメンバーとしたことはない、と三回目の対戦で聞いた。だからきみとできて嬉しい、とも。

 そう言われたら、私に断る道理なんてない。



「──クラぁウス」



 と、声が割り込んだ。

 スティーブンが一枚の書類をヒラヒラさせながら、裏のある笑顔で口を開いた。



「悪いけど、小兎を僕に貸してくれるかい。緊急の任務について、打ち合わせがしたい」



 そう言われて、クラウスさんが食い下がるような真似をする筈はない。「そうか。ならば仕方ないな」と神妙に頷くだけだ。

 見えない尻尾を垂らしながら、クラウスさんが自分の席に戻っていく。
 その肩を掴んで引き止めたい衝動に駆られながらも、私はスティーブンの元へ歩いた。

 スティーブンはヒラヒラさせていた書類を私に押し付ける。



「急で悪いんだが、潜入捜査だ。今夜、一人で。……頼めるか」

「詳細を教えてくれるなら」

「お安いご用」



 スティーブンは掴んでいたペンを置いて、私と目を合わせた。その際腕を移動させ、積まれていた書類の上に置く。

 ──それが何かを私から隠す所作だとは、気付かなかった。



「まず任務の概容だが──」










 任務の準備を整える為、小兎が執務室を出ていく。その後ろ姿が完全に扉に隠されるまで、スティーブンは笑顔を崩さなかった。



「──不確定情報だということを念頭に置いて、聞いてほしい」



 小兎が見えなくなった途端、スティーブンは瞬時に表情を真剣なものに切り替えた。クラウスの方を見ないまま、語りかける。



「小兎の父親がHLに入ったという情報があった」



 クラウスの顔色が変わった。



「まさか、小兎を追って……!?」

「その可能性も否めないが……現時点では何とも言えない。それに、この情報自体が不確定だ」

「……だとしたら、何故小兎を任務に?」

「情報の真偽を確かめたい」



 スティーブンは少しだけ間を空けた。

 ペンを手に取り、腕を移動させた。それまで腕に隠されていた書類の文字が、読めるようになる。



[──小兎の父と見られる日本人の男性がHLに足を踏み入れた跡が──]



 意識して、スティーブンはそこから目を離した。



「チェインたちとは別に、僕らも確認調査をしようと思うんだ。……クラウスも手伝ってくれるかい?」

「構わないが──何故小兎にそのことを話さない?」

「もし違ったら、無駄に混乱させるのも酷だろ」



 小兎に与えた任務は、裏社会に関連するものではあるが──危険度はさしてない。基本的に冷静な彼女なら、無闇な行動をすることはないだろう。

 任務に専念していれば、彼女にこの情報が入ることはないだろう。無駄な混乱を与えることもない。



「何もないなら──それでいいんだ」



 小兎の境遇を、スティーブンは他の仲間より熟知している。もしかしたら、クラウスよりも。

 だから、彼だけが知っている。何事もなく日々を過ごしている小兎の奥底には、未だ父親に対する薄暗い炎が燻っていることも──その炎は、父親を目の当たりにすれば即座に勢いを取り戻すだろうことも。

 ──彼女がまだ父親に対する未練を捨てきれていないことを知っているスティーブンだけが。









 餌は撒いた。

 必ず、かかる。
 アレはそうせずにはいられない。そういう風にできている。

 男は語る。

 嫌と言うほどそれを知っている、と。








 任務の場所は、小さな酒場だった。パッと見た限りでは、特に怪しげな点はない。

 向かう場所が場所ということで、普段みたいなラフな服装というわけにはいかなかった。着なれないスーツを引き摺るようにして、私は酒場に足を踏み入れる。からんからん、と乾いた鈴の音がした。

 カウンターの奥に佇立していた店主が、ちらりとこちらを見た。「……いらっしゃいませ」虫みたいな大量の複眼が一斉に私を映した。店主の六本の手はグラスを磨いている。



「ジンとベルベットを混ぜて、そこにシェリーを入れてほしいんだけど」



 視線を反らしかけていた複眼が、また一斉に私を捉えた。それを真っ向から迎え撃つ。

 グラスを磨いていた店主の六本の手が、止まっていた。それがまた動きを再開したとき、彼、あるいは彼女は言った。



「……奥へ、どうぞ」



 スティーブンから聞いた合言葉は間違っていなかったようだ。

 六本の内の一つがにゅるりと伸びて、最奥の酒棚を押し退けた。それを終えると、またグラスを磨く作業に戻る。

 酒棚は地下へ続く階段を隠していた。埃が溜まっていないことから、わりと頻繁に使用していると解る。



「ありがとう」



 一応の礼儀かと思い声をかけたが、店主は私を見もしなかった。若干不満に感じつつも、階段を下っていく。

 階段の壁面には一定の間隔で燭台が掛けられていて、思ったよりも暗くはなかった。十段ほど下ったところで、後ろから何か重たい物を動かす音がして、あの店主が酒棚を戻したのだと悟る。

 恐らく、この階段に意味はない。ライブラの執務室が正しい手順を踏まなければ辿り着けないのと同様、この階段を下るという手順に意味があるだけだろう。

 かつん、かつん。
 階段は石でできていた。私の足音だけが無意味に反響して、どこに届くでもなく消えていく。

 ──スティーブンが、どうして私にこの任務を任せたのか解らない。たぶん、誰でもよかった筈だ。ただの視察なんだから。

 突発的な行動をしかねないザップはともかく、それ以外なら恐らく誰でも。

 ……いや、誰でもよかったから私なのか。

 思考に一区切りつけたとき、ふいに視界が開けた。暗闇から白光へ。目が急激な変化に慣れず、咄嗟に瞼を下ろした。

 ──何らかの魔術が作用、もしくは発動したらしい。私は正しい手順を踏めたようだ。
 目が慣れたとき、暗い地下はそこになかった。代わりに、異形と人間が入り乱れるオークション会場があった。

 入札者の席は上段と下段に分かれていた。下段の最前線VIP席には、仮面をつけた人類ヒューマーの姿もちらほら見られる。……こんな場所に来るのに、素顔を晒す度胸もないのか。

 怪しまれないようスタッフから札を受け取って、私は下段の最後列よりもさらに後ろ──壁に背を預けた。競りに参加するわけでもないし、わざわざ席に座る必要はあるまい。いざというとき、反応しづらいし。

 ──此処は所謂、闇オークション。
 HLではそう珍しくもないし、世界に害を及ぼすようなものでもない限り、ライブラも取り締まらない。数が多すぎて、小さなものにまで手を掛けていられないのだという。
 しかし、放置しておいたせいで危険を見過ごした、なんて話になっても洒落にならない。だからこうして、誰かを派遣して一応の監視を行っているらしい。今回はそれが私だった。

 席は着々と埋まっていく。私の位置からでは下段しか視認できないが、このざわめき具合からするに、上段も相当込み合っているだろう。

 客の観察に勤しんでいたら、ふいの消灯。代わりに、ステージ上だけが目映く照らされた。賑やかな音楽と共に、異形の司会が壇上に上がってくる。



「紳士淑女の皆々様、今宵もようこそお集まりくださいました! 人界異界の区別なくかき集められた品々が、皆様のお眼鏡に叶うこと、私、心からお祈り申しあげます!」



 司会が芝居がかった動作で一礼してみせる。控えめな拍手が収まってから、彼はまた頭部を上げた。



「では、本日最初の品。ワタウョキウト氏寄稿の、五千年前生まれた竜の頭のホルマリン漬けでございます! 七百から!」



 人間のバニーガールが、滑車を引いて商品をステージに持ってきた。それを皮切りに、競りが始まる。

 あちこちで札が上がり、その数だけ値段を叫ぶ声が飛ぶ。

 商品は実に多種多様だった。人界の古書から異界の愛玩動物まで。そのどれもがHL以外ではなかなかお目にかかれない代物なのだろう。

 そう分かってはいても、そのどれにも私の心は揺らがなかった。任務だから、ということを除いても、せいぜい「あんなモップにしか見えない生き物をペットにするとか頭大丈夫か」ぐらいの感想しか浮かんでこない。

 無味乾燥した目でオークションの流れを監視する。どんなものが悪用されるかまでは解らないから断言はできないが、特にこれといった危ない品物は見られなかった。

 司会が片腕を伸ばし、ステージ中央に置かれた正方形のものを手のひらで示す。布で覆われていたが、裾から度々見える質感から、それが檻だと解った。
 先程も牙の生えた物干し竿みたいな異界生物が檻に入っていたから、特に違和感は感じなかった。

 明日にでも異常はなかった、とそう報告すればいいか、と──

 ──暢気なことを考えていたのだ。



「──さァ、これが今宵最後の商品です! 既にお目当ての品が手に入った方もそうでない方も、奮ってご参加頂きたい! それほどの目玉商品です!」



 司会が布を掴み。



「愛玩するもよし、実用するもよし! 体毛は真珠パール、瞳は緋石ルビー。そして何よりも──」



 一気に、取り去った。



「──未熟ながらも、何とあの“百鬼の怪舌”を備えています! さァさァ、今世紀はもうお目にかかれますまい商品ですよ!」



 ──指先まで硬直したのが解った。解っているのに、動かない。

 檻の中にいたのは、まだ幼い少年だった。投げ出された四肢は細く、双眸に宿る光は力がない。衰弱しているのだとすぐに解った。

 私は、あの少年を知っている。そう思う。だが、面識はない。壮絶な既視感に襲われているのだ。
 深雪めいた髪に、血のように赤い目。そんな特徴を持つ知り合いはいない。そう理解しているのに、私は彼から目を離せなかった。

 だって彼の──彼の顔立ちはあまりにも────。

 知らぬ間に、競りが始まっていた。好き勝手に彼の値段を定めていく無礼な声すら、私の耳に入らない。

 ──ふいに、少年が顔を動かした。

 私が此処にいることを、彼が知っていた筈はない。しかし確かに、少年は私と目を合わせてみせた。

 ねえさん、と。
 口を、動かした。

 ──目を、閉じる。



「──おや、おやおや? 八億を越える方はいらっしゃいませんか? いらっしゃいませんね? では、八億で決定と──」

「──……【停電】」



 ふっ、と。
 ステージを照らしていた照明が消えた。
 会場が闇に閉ざされてしまい、慌てる司会やスタッフの声がする。

 ──目を、開けた。

 そんなものには耳を貸さず、私は走り出していた。一直線にステージへと駆け上がる。闇に慣らさせた目のおかげで迷うことはなかった。

 檻に手を触れ、また呟く。



「【切断】」



 ぱきん、と鉄の棒が切れた音が連続する。あっという間に小さな穴ができた。そこに手を突っ込み、無理矢理少年を引っ張り出す。

 ──会場の照明が元気を取り戻したのは、そのときだった。

 知らぬ間に傍らにいた私に驚いたのだろう。司会はあからさまにギョッと飛び上がってから、金切り声で叫んだ。



「と──捕えろォ! 泥棒だああァッ!」



 少年を脇に抱えるようにして、私はステージの裾へ駆け込んだ。戸惑うスタッフの波を抜けて、ひたすらに走る。

 その場で誰よりも混乱していたのは、きっと私だ。
 私の知る弟妹に、こんな少年はいなかった。こんな少年は知らない。ならばどうして彼を助けたのか。

 助けねばならないと、そう思ったのか。

 舞台裏は、私の想像を遥かに越えて広かった。だがあれだけ商品があったのだから、搬入口は必ず存在している筈だ。

 空っぽの檻が立ち並ぶ通路を駆け抜けて、角を曲がり──急停止を余儀なくされた。

 最新鋭の重装備甲冑スーツを着込み、重火器を構えた──通路を埋め尽くさんばかりの数の連中が、此方を睨みつけていたから。

 装備の充実ぶりからして、私兵だ。オークションの警備兵にしては装備が重すぎる。

 ならやはり、この子は──

 だとしたら、私は────。

 ──知らず、奥歯を噛み締めていた。



「……私を、釣ったの?」



 返事は、殺意の弾幕だった。

 曲がってきた角を戻り、その際に怪舌を発動させる。



「【鉄壁】!」



 通路に鉄の壁が出現し、連中の障害となった。この狭い通路では、あれを乗り越えることも通り抜けることも困難だろう。すると消去法で破壊するしかないが、連中の装備では時間がかかる。

 私が逃げるぐらいの時間なら、稼げる筈だ。
 連中とは違う、軽装備の警備兵を怪舌を蹴散らしながら、逃げ道を探す。その最中に一度だけ、抱える少年を窺った。

 すぐに後悔した。
 そんなことを考えた自分自身に腹が立つ。

 少年は衰弱しきっていた。もはや一人で歩くこともできまい。
 そんな彼を──疑うなんて。

 彼はきっと、利用されただけだ。私を誘き寄せる餌として。

 ──それが機能したかはともかく、実際私は動いた。あの男の目論みであるなら、少年は役割を果たしたといっていい。

 ──弟妹たちには危害を加えないと思っていた。
 甘かった。あの男がどんな人間か、私はまだ理解しきれていなかった。
 こんな幼い子供まで利用するなんて──まさか、ここまで手段を選ばないなんて。

 ようやく見つけた扉をこじ開ける手つきは、苛立ちのせいか、とても乱暴だった。










「……っは、は……」



 暗がりの路地に身を潜め、急いで息を整える。HLでの路地は危険地帯と同義だが、いまは身を隠せるなら手段を選んでいる場合ではなかった。

 まだ遠くない場所で、私を探す声がする。あの私兵たちか警備兵かまでは判別できないが、味方でないのは間違いない。

 全力疾走で疲弊した身体を少しでも回復させるため、壁に凭れるようにして座り込む。少年には私の膝を貸し、横たわってもらった。



「……とにかく、連絡しなくちゃ……」



 ジャケットのポケットから携帯電話を取り出す。リダイヤルで一番上に表示された番号に電話をかける──寸前で、小さな手に携帯電話を払われた。



「な……」

「──ダメだよ」赤い目が不気味に私を見据えていた。「だれも、巻き込んじゃダメだ。ボクたち以外も不幸にしたいの?」



 ──ボクたち以外も不幸にしたいの。

 その一言が、私の中に眠っていた引き金を引いた。
 顔からさぁっと血の気が引くのが解った。脳裏で嫌な記憶がフラッシュバックする。血だ。胴体のない首を切ったからだ。それは誰だ。父さんの命令で殺した人たちだ。

 兄さんや姉さんだ。



「──っ、ぅ゛お゛ぇ……!」



 咄嗟に少年にかからないようにする理性は、まだ残っていた。身を捻り、傍らに込み上げる吐瀉を吐く。

 起き上がった少年は、吐き続ける私の背を擦った。痩せ細った手で、何度も何度も擦ってくれる。



「……携帯電話それは、捨てていこう。位置が特定されやすくなるから」

「……っ、げほっ。き、きみは……誰なの……?」

「わざわざ言わなくても、もう解っているでしょう」



 底知れぬ赤い目が、私を映した。



「ボクは、貴女の代わりレプリカだ」






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